第五十一話
初冬の扇町公園は静かだった。神山町の通りと、キッズパークの出入り口を斜めに横切る人々が急ぎ足で通り過ぎた。
公園を急ぎ足で歩いてはいけない。公園はのんびりと歩きながら様々なことを思考する場所なのだ。
この時期になると、人々は公園でくつろぐこころのゆとりさえ失くしているかのようだった。
私たちはいつも座る芝生に腰を下ろした。
「それで、相談って何なんだ。ちゃんと話すんだぞ。今日会えなかったらどうなっても知らないって言っていたくらいなんだからな」
「分かってる。ちゃんと話すから。でも光一、もう一度訊くけど、どうして前みたいに電話をしてくれなくなったの?私たち、もう深い関係だよ。遠慮なんか要らないのに」
「何?」
真鈴の言葉にはときどきドキッとすることがある。
深い関係・・・確かにそうかもしれない。
私と真鈴は知り合ってというか尾行中に捕まって以来一年半あまりにもなるが、何度も何度も環境が整っていない感覚があって、寸前のところで男女の関係は回避してきた。
だが、今年の八月に暴風雨に追われながら霧島温泉から大阪まで、一日がかりで帰ってきた夜、私たちは彼女の言う「特別な関係」になったのだ。
「前に言い寄ってきた予備校の男の子の話、覚えている?」
「長い手紙を何通もくれた予備校生のことだな」
「そう。何月だったかな、確か七月だったよね、扇町公園で光一に相談したでしょ。どうしたらいいかなって」
「そういうことがあったな」
「何だよ、忘れたの?そういうことがあったなって、ガックリだよそんな言い方」
真鈴は体育座りの足の間に、本当にガックリしたように顔をうずめた。チェックのミニスカートから覗く太ももが眩しかった。
「真鈴」
「何だよ」
「いつも言ってるだろ。僕と会うときはそんな短いスカートはやめろって」
「またそんなこと言うのね。馬鹿みたいだよ。こんなの長いほうなんだからね。予備校の女の子だってみんなもっと際どいミニスカを履いてるよ」
「その・・・ミニスカっていうのはミニスカートを縮めた言葉か?」
「そうだよ」
「何でも縮めればいいってもんじゃないだろ。僕は反対だな」
「相変わらず変な人だね、光一って。でもそんな話をしてるんじゃないよ。その男の子のことだよ。ちゃんと聞いてよ」
「分かってるよ。だから私にはその気はありませんって断ったんじゃなかったのか?」
「断ったよ」
「じゃあ、今度は何を言ってきたんだ?ストーカーでもされたのか?もしそうなら僕が蹴散らしてやってもいいぞ」
「そんなんじゃないよ、そんなことをする人じゃないの。私と同じ大学を受けるって言い出して、もし僕が合格したら、正式に付き合ってくれる約束をして欲しいって言うんだよ」
真鈴はそう言って再び体育座りの股間に顔をうずめた。
同じ光景を今年の夏も見たことがある。
あの日、しばらく股間に顔をうずめて泣いていた真鈴は急に立ち上がり、私を先導するように真夏の太陽の下を歩き出した。
あのときの、真鈴の全身から放たれていた先導力のようなものはいったい何だったのだろうと、ときどき思い起こして不思議な気持ちになる。
私と真鈴に熱射を注ぎ込もうと、どんなに太陽がはしゃいでも、あのときのふたりには全く通じなかった。
まるでオルレアンへ向かって旗を掲げて兵士を先導するジャンヌ・ダルクのようだった真鈴に私は従い、そして決められた儀式のように私たちは初めて肌を接した。
でも、その時は一線を越えなかったのだ。
「頭良いんだな、その予備校生。それに真鈴のことが本当に好きなんだな」
「良い人だよ。とても優しくて寡黙で真面目だし。光一みたいに私を放っておかない」
「どういうことだ?」
「光一は私にめったに電話してくれないじゃない。でも彼は二日に一度は携帯に電話をくれるよ。
手紙も前ほどじゃないけど、ときどきすごく長いのをくれるの。真面目すぎて引いてしまうくらい」
真鈴は綺麗だ。彼女の可憐さはひと際、目を引かれるものがある。
仕草や表情にときどき私もドキッとすることがある。
「クリスマスイブにコンサートに行ってから食事をしようって三日前に誘われたの。これまで予備校のあとマックとかミスドで少しだけ喋って帰るだけだったんだけど、キチンとした言葉で誘われたのは初めてなの。私、ちょっと怖いの。どう思う?光一」
「相談って、そういうことなのか?」
「そうだよ。明日また予備校があるから、そのときに返事しないといけないの」
私は考え込んだ。私はこころから真鈴が好きだ。
でもいくら好きだからといって、自分の気持ちに正直になろうなんて青臭いことを言っているようでは誠実な人間とはいえない。
オネスティはサッチァ、ロンリーワードだ。
正直イコール誠実ではない。正直に生きれば生きるほど誠実という言葉は空しく感じるものなのだ。
自分の気持ちに固執して、真鈴の将来を狂わせることはできない。
だから真鈴に対して「彼には悪いが断ってくれ。真鈴は僕のものだから」と堂々と言えないのだ。
「どうしたんだよ、光一。何でずっと黙ってるんだよ」
「真鈴」
「何よ?」
「僕は君とずっと一緒にいられたらいいなと思っている。でも、現実に目を向ければそういうわけにもいかない。君は来年から大学生だし、僕は妻と別居中の中年にさしかかる男だ」
「それが何?」
「何って言われてもなぁ。本当に僕のことを真面目に考えているのか?」
「考えているよ、光一のこと・・・私、好きだよ」
「でもな、僕はたくさんの問題を抱えている男だからな、だから真鈴に対して、悪いがその予備校生の誘いを断ってくれないかって、自信を持って言えないんだ」
真鈴はしばらく遠くを見るように目を細めていた。
「奥さんのこと?」
「それもそうだけど、いろいろとあるんだよ。今抱えていることをキッチリ片付けるまでは気持ちに余裕がないんだ」
「どうして光一は完璧を求めようとするの。そんなの難しいと思うよ。前に光一が何度か言っていた環境の変化が必要だっていう言葉、私好きだよ。
変化して、ある程度整えばいいんじゃない?理想の条件になるのを待っていてもなかなか来ないよ」
「なんだ、生意気なこと言って」
「だからさ、八月に初めて光一とエッチしたのは環境が整ったんだよ」
「エッチなんて軽い言い方するなよ」
「じゃあなんて言えばいいの?」
「それは・・・やっぱり、つながるって言葉だろう。重厚な趣がある」
「変な人」
私たちは扇町公園を出た。神山町の交差点を越えて兎我野町へ歩いた。
いつの間にか再び真鈴は私の手を取っていた。
「ホテルでゲームするか?」
私は照れ隠しに思ってもいないことを口に出した。
八月以来四ヶ月も経っていたら、初めて真鈴を抱いたときとあまり変わらない緊張感があった。
「ゲームなんかどうでもいい。光一に抱いてほしい。たまには息抜きが必要なの。受験勉強なんて本当につまらないんだから」
「じゃあ、一回だけ抱いてやるよ。何度も抱くと受験勉強どころじゃなくなるからな」
「じゃあ、一回だけ抱かせてあげる。何度も私を抱くと、光一だって明日から仕事が手につかなくなるよ」
私たちは顔を見合わせて同時に吹き出した。
八月以来の真鈴とのつながりは、初めてのときのように身体もこころも震えた。
身体を固くしてしがみついてきた真鈴を少しずつ開いた。
二十歳になっても真鈴の吐息にはまだ少女の匂いが残っていた。
「本当にたびたびこんなことはしないんだぞ」
大学受験生の女の子が、中年にさしかかる男とラブホテルなんかに入ってはいけないのだ。
でも真鈴も「そんなに私をたびたび抱けると思わないで。光一に飽きられるのが怖いから」と言っていた。
ともかく彼には悪いが「私、クリスマスイブも翌日も家族といなくちゃいけないの。それとあなたが大学に合格することと私のこととは別だから、そんな約束はできない。ごめんなさい」とでも言って断ってくれと、真鈴に提言した。
「分かった、そうする」
真鈴はニコッと笑って抱きついてきた。
これでよかったのかどうか、考えても分からなかった。
こんな場合どうすればよいのか、ビリージョエルに訊いてみたいと思った。
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