第五十話
真鈴と最後にあったのは十月初旬の日曜日だった。
八月にしてやれなかった誕生日祝いをして欲しいといきなり電話があり、私の事務所の応接室でシャンパンを飲んでケンタのチキンを食べて、そして霧島温泉のときよりもずっと大きなケーキをゲップが出るほど食べた。
それ以来だ。
「忘れるわけないだろ。特別な関係ねって、そっちが前に言ってたじゃないか。そうじゃないのか?」
「へえ~、憶えているんだ。光一にしては珍しいね。ともかく会いたいの。会えなかったらどうなったって知らないから」
真鈴の得意の言葉が出た。
「会えなかったらどうなったって知らないから」
これまで何度この言葉に慌てたことだろう。
そして急いで会うと、それほどたいした問題でもなかったりするのだから始末が悪い。
「いつ会えばいいんだ?」
「今日じゃだめ?」
私は真鈴と午後二時に大阪環状線の天満駅改札口で待ち合わせをした。
急に相談事とは一体何なんだ?
律子さんの相談事のあとに今度は真鈴だ。
今は急ぎの案件がないから対応が出来るが、正直ちょっと精神的に疲れていた。
車を駐車場に入れて、いったん事務所兼居宅に戻って自分でコーヒーを淹れた。
律子さんが淹れてくれるコーヒーほど美味しくはなかったが、飲みながらゆっくりと現在の自分の状況を客観的に見てみた。
今の仕事は失敗した金融業と違ってリスクがない。
この一年半余り一応安定した調査依頼が二社から入っていて、時には身体一つで休みなく飛び回ったりもするが、そこそこ安定した収入を得ていた。
妻の有希子とは新たな商売が軌道に乗れば、再び同居して夫婦関係を元に戻す約束だったが、思いがけず彼女が癌を患ってしまったことから、義父母から離婚の強要にまで最近は至っている。
有希子自身もそのことにもはや同意しているフシが窺えた。
真鈴とは一度男女の垣根を越えてしまったが、彼女が言うようにいずれ特別な関係になるのは見えていたから、自然の流れといえた。
だが、律子さんや関さんは違う。
私の長所でもあり同時に短所でもある親切心から、ふたりには誤解の域を超えてしまった感情を持たれている。
律子さんも関さんも好きかと訊かれれば「好き」と返事してしまうのだ。
それは私が昔から聴き続けていたビリージョエルのオネスティという楽曲の影響といえた。
オネスティはサッチァ、ロンリーワードだ。
だが、空しい言葉であってはいけないのだ。
正直さはもちろん大切だとしても、それが同時に誠実なこととは決して言えない。
正直に生きれば生きるほど、誠実さが失われていくこともこの世の中では珍しくはない。
だから、正直な気持ちのまま律子さんや関さんとの関係を続けていると、ふたりの将来を狂わせてしまうことにもなりかねないのだ。
「ほどほどにしておかないとな」
私はため息を吐いて無意識に呟いていた。
午後二時時ちょうどに真鈴は改札口に現れた。
このところずいぶんと寒くなってきたのに、グレーと濃いグリーンのチェックのミニスカート姿だった。
「寒くないのか?そんな格好で」
「ちゃんとマフラーを巻いているじゃない。全然寒くなんかないよ」
そう言って彼女はグレーのパーカーのポケットに両手を突っ込んで、天神橋筋商店街を先に歩き出した。
濃紺に赤の細い線が入ったマフラーがよく似合っていた。
カジュアルな服装だが会うたびに彼女は少しずつおとなになり、綺麗になっていくような気がした。
「ちょっと待って、どこへ行くんだ?」
「どこって、プランタンへ行くんじゃないの?」
「相談事があるって言ってただろ」
「お昼まだ食べてないんだよ。お腹が空いてるの」
私は頭が痛くなってきた。
喫茶・グリル「プランタン」は昔ながらの「なにわの喫茶店」で、天神橋筋商店街の二丁目、地下鉄南森町の駅を上がったところにある。
安曇野の常連客である伊藤氏がオーナーで、コーヒー専門店やセルフサービスを主体とした店などが増え続ける中、昔からの純喫茶スタイルを貫き続けている立派な店だ。
オーナーの伊藤氏の人柄はともかくとして、ここのエビフライは抜群の味なのだ。
日曜日のお昼時を過ぎていたが、店はかなり混んでいた。
伊藤氏が私を見つけて近寄ってきた。
「よう来てくれました。今日も別嬪さんとご一緒でんな。まあこっちへ座りなはれ」
彼は私たちを厨房近くの奥の席に案内した。
厨房から離れた席がいいのにと思ったが、「どうぞ、さあどうぞ」と強引に奥へ誘導されてしまった。
「忙しそうですね。ともかくいつものエビフライ定食と、飲み物はホットカフェオレを」
「おおきに。まあゆっくりして下さいな。めったにお越しになりませんのやから」
伊藤氏はそう言って厨房に戻った。
彼とは出身が同じ愛媛で、私の実家がある今治と彼の宇和島とはずいぶんと離れているのだが、同郷の親しみやすさというものがあって、「安曇野」でも気軽に並んで飲むことがある。
ただ、奥さんが大阪の人なので、無理をして喋る大阪弁のアクセントがおかしいのだ。
「ごめんな、別嬪さんなんて。品がなくて」
「いいの。もう慣れたから」
真鈴は笑った。
「ところで相談って、まだお父さんとうまくいっていないのか?それともお母さんのことかな?」
「ううん、違うの。エビフライを食べてから、あとで話す」
昨年十一月に奥沢氏が真鈴のもとに戻って来てからちょうど一年が経つ。
彼の無理のない働きかけで今年の三月に母は家に戻ってきた。
その後も宗教団体とは決別できておらず、ときどき数日家を空けて教会に泊り込むことがあるらしいが、少しずつ家族はもとの状態に戻りつつあると沢井氏から聞いている。
「本当にここのエビフライって奇跡的に美味しいよね」
運ばれてきたエビフライ定食を、私たちはほとんど無言で食べた。
真鈴はエビの尻尾までガリっと噛んで食べていた。
「奇跡的に美味しいってどういう表現なんだ?やっぱり、K大受験生の言うことは僕のような凡人とはちょっと違うね」
「馬鹿にしてる?」
「馬鹿になんかしていないよ。詩的な表現だと感心しているんだ。僕が真鈴を馬鹿になんかするわけないだろ」
「光一」
「何だ?」
「私のこと、好き?」
「えっ?」
私は飲みかけていたカフェオレのカップを危うく落としそうになった。
伊藤氏のほうをチラッと見ると、彼は接客で大変な様子だったのでホッとした。
いちいち茶々を入れられるとうるさいのだ。
「ちっとも電話をくれないのはなぜ?」
「それは、僕もいろいろと忙しかったんだ。でも律子さんの相談事もだいたい解決しそうなんだ」
「前はどんなに忙しくても電話くれたじゃない。浪人生の私を気遣っているの?」
「真鈴のほうこそ、前は深夜でも電話をくれたじゃないか」
「それは・・・私だっておとなになったんだからね。おとなにしてくれたのは光一だよ」
「真鈴、ともかく出よう。緊急の相談があるんだろ。公園へ行こう」
店内は暖房がよく効いていたが、周りの客たちに会話が聞こえていないかと、背中を冷や汗が流れ落ちた。
レジまで伊藤氏が来て、「年齢差なんか気にしたらあきまへんで」と、ダメ押しのようにわけの分からないことを言った。
彼は少し寡黙になるべきだ。
店を出て天神橋筋商店街を北へ歩いた。
商店街には当たり前のように、早とちりのクリスマスソングが流れていた。
少し歩いたところで真鈴が手をつないできた。
私の右手は彼女のひんやりした左手に握られた。本当に恋人のようで、少し照れくさかった。
商店街を歩く人々全員が、ふたりの不釣合いに首をひねっているような気がした。
真鈴は相談事など無いかのような飄々とした顔つきで、つないだ手を軽く振って鼻歌を歌っていた。
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