第四十九話

 十二月に月が替わって最初の日曜日、私は律子さんの家を訪ねた。


 最初にL社を訪問したときに川上家との関係を訊かれ、「妹さんの婚約者」と返事していたので、当事者である兄や両親と会っておく必要があった。

 勿論、律子さんの婚約者なんてことはあるはずもないのだが。


 兄は私と長く視線を合わせるのをためらうような表情を見せる以外は、普通の青年と変わったところは見受けられず、口数は少ないが丁寧な物腰で好感が持てた。


「息子のことでお世話になります。娘が勝手なお願いをしてしまって、大変申し訳なく思っております。

 私ら、あまり法律とか会社へ交渉する方法とかが分かりません。企業を相手にお仕事をされていた岡田様に律子が相談してみると言うものですから、厚かましくも任せてしまいまして、ご迷惑をおかけしています」


「いえ、企業を相手といっても町工場や小さな事務所が相手でしたから、私とて要領を得ません。

 でも従業員の精神的疾患を会社側が無関係だというような態度を見せることが許せないと思ったのですよ。特別な交渉術は持ち合わせていませんし、法律も知りませんが、やるだけやってみます」


 律子さんの父は実直そうな人柄で、仕事は此花区にある大手製鉄会社の現業員とのことだった。

 母は私と父の話に心配そうな表情でときどき相槌を打ち、特に何も言わずに聞いていた。


「ともかく、返事待ちなんです。今思うと、ひとりで乗り込んで金を出せって言っているようなもので、脅しみたいだし、無謀を少し反省しているんですよ。こういうのって弁護士を介して交渉するのが普通ですよね」


 私は出された熱いお茶を啜って、笑いながら言った。


「いえ、私は一度弁護士さんの無料相談の日に府庁を訪れたことがあるんです。でも弁護士さんがおっしゃるには、息子の場合は仕事との関連性を証明することは難しいらしいのです。

 勿論、訴えることはできるらしいのですが、長引くだろうし勝ち目も薄いのではないかと」


「だから私が岡田さんに相談して、示談で話を持ちかけたほうが良いよって言ったの」


 律子さんが言葉を挟んだ。それからしばらくお茶を飲んで世間話を交わした。

 彼女のためにも、この家族に突如降ってきた不幸に少しでも役立ちたかった。


「それではL社から連絡が入ればまたご報告いたします。希望どおりの示談金には及ばないかも知れません。

 でも、引き際も大事だと考えていますので、あまり突っ込んだ交渉はしないつもりです。よろしいでしょうか?」


「私らは岡田様にお任せしておりますので、何も言える立場ではありません。よろしくお願いします」


 律子さんの父が私に頭を下げ、それに母も兄も続いた。

 私は逆に恐縮してしまい、その場に長くは居辛くなってしまった。


「食事でもして帰ってください。近くのレストランでもいかがですか?」


 両親が何度も勧めてくれたが、丁寧に辞退した。


「このことがうまく終わったら、そのときはぜひ何か美味しいものでも食べさせてください」


 そう言い残して律子さんの家を出た。


 駐車場まで彼女がついて来て、その間ずっと何か言いたそうだったが、私はあえて訊かなかった。


「ごめんなさい、せっかくの休みに」


「休日は仕事が入っていなかったら特になにもすることがないからね。だから前にも言ったと思うけど、こういう用事があれば嬉しいんだよ」


「うん、でもごめんなさい」


 律子さんはなぜか繰り返し頭を下げていた。


「じゃあ、明日またよろしくね。明日は朝早くから和歌山の現場に直行だから」と言って私は車に乗ろうとした。


 だが律子さんは車のキーを持った私の手を取って、「私のこと、好き?」と顔を覗き込むようにして、不安そうに訊いてきた。


「好きでなければこんなことに首を突っ込まないだろ。苦しむくらい好きだよ」


 私は冗談のつもりで言ったのだが、彼女はホッとした表情に替わった。


 罪なことを言っていると思いながら車に乗り込み、エンジンをかけた。

 バックミラーには律子さんが笑って手を振っている姿が映っていた。

 彼女は兄のことで半年も苦悩し続けていた。その苦しみから解き放ってやらないと可哀想だなと思った。


 車を走らせ、淀川を渡っているときにスマホが鳴った。着信のディスプレイにはマリーンと表示されていた。


 そうだった。私は連絡をしなければと思いながらも、有希子との離婚の問題や律子さんの相談事などで、真鈴のことをすっかり忘れていたのだった。


「もう私のことなんか忘れたんだね」


 応対ボタンを押してスマホを耳にあてると、真鈴はいきなりそう言った。

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