第四十八話
「岡田さん、L社の岡山さんという方から電話です」
寒さが日に日に増してきた十一月下旬、律子さんが事務所に出勤してきて、寝起きのコーヒーを淹れてくれた午前十時過ぎ、L社からようやく連絡が入った。
「岡田様、連絡が遅くなって申し訳ありません。もうしばらくお時間をいただけますでしょうか。やはり取締役会にかけないといけませんから」
「取締役会にかけられる?そんなに大きな問題でしたら、なぜ在職中にもっと社員のケアが出来なかったのですかね。ともかく、もうしばらくってどれくらいです。それと示談金額の提示はまだですか?」
「ええと、金額のほうは三百万円ほどを考えておりますが、いずれにしましても役員会の承認を得ないといけませんので。まあ、それは形だけのものになりますから、ご心配なく」
電話の向こうの岡山部長はおそらく腰を折って話をしているに違いなかった。やはり彼らとてサラリーマンなのだ。
「心配はしていませんが、金額はお話になりませんな。あまり眠たくなるようなことを言わないでくれよ。
お宅らのせいで前途ある若者がおかしくなってしまったんだからな。こっちは真剣なんだ」
「それはよく分かっております。ですから、できる限りのことを、その・・・善処しておりますので、今しばらく・・・」
「早く結論を出してくれ、これくらいのことでいつまでも待たせるな!」
私は有希子との関係修復が難しくなってきている苛立ちを、律子さんから依頼された標的に突き向かうことで紛らわそうとしていた。
容赦ない激しい口調で電話を切ると、パソコンの画面に向かっていた律子さんが、目を剥き口をポカンと開けて私を見上げていた。
「今の岡田さんはちょっと怖かったです」
「いや、単に金融業のときの癖でね、大きな組織を相手にすると、自然とね、なんて言うのかな、臨戦態勢って言えばいいかな、そういう気持ちになってしまうんだ」
「でもすごい迫力でした」
律子さんは少し上気した顔つきで言った。
「お兄さんの慰謝料は話にならない金額を提示してきたから、もう少し時間がかかりそうだけど大丈夫かな」
「お願いします」
「それから、一度ご両親とお兄さんにも会っておきたいんだけどな。僕に相談していることは家族に話をしてるよね?」
「もちろんです。いろいろ親切にしてくれて、兄の荷物を運んでくれたことも伝えているから、一度キチンとお礼をしなくちゃって、父も言ってるの」
相変わらず律子さんは丁寧語とため口を混ぜて言った。
「礼なんか要らないよ。やりたくてやっているだけだから」
都合の良い日をご両親と相談して欲しいと律子さんに伝えて、私はコーヒーを飲みながら、数日前に有希子から郵送されてきた離婚届に素直に同意するべきか、或はしばらく放置しておこうかを考えた。
手紙の中には離婚届の用紙が入っていて、すでに有希子の署名欄には名前が書かれていて印鑑も押されていた。
だが、その文字は少し有希子が書いたものと違っているような気がするのであった。
私は奥の部屋に移動して有希子のスマホに電話をかけてみた。
コールは七回目あたりで留守番電話に替わったが、伝言を残さずに切った。
そのあと生駒の有希子の実家に電話をかけてみると有希子の母親が出た。
「岡田ですが、有希子は今いますか?」
「あら、岡田さん、有希子は今病院なの。ちょっと身体の具合がね・・・」
義母が言いかけた途中で義父が電話を替わり、「有希子は今病院です。岡田さん、届いていると思うが、離婚届にサインして送り返してくださいな。すまんが急いでください」と言うのであった。
「分かりました。それは有希子の本意でしょうか?有希子と話がしたいのですが、病院は生駒中央病院ですか?」
「病院はずっと同じですが、ちょっと今は検査中なもんで、面会は控えてもらえませんかな。出来るようになれば有希子から電話させます。ともかく離婚届けを送り返してください」
面会も出来ない状態なのかと私は心配になったが、義父が離婚届にこだわることに腹立たしくなり、「分かりました。有希子に電話が可能になれば連絡が欲しいと伝えてください」と言って電話を切った。
有希子の病状に何か緊急なことが起きている可能性があったが、私はもうあまり考えないことにした。
有希子も両親も、もう離婚については決定しているようだったからだ。
やはり彼らは有希子に万が一のことがあった時のために、義父母の資産を相続する権利を有する私と縁を切っておきたいのだ。
私が逆の立場だったとしても同じことを考えるだろうと思った。
ふたりの間に子供がいないのだから、それはごく自然なことなのだ。
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