第四十四話

 考えてみれば有希子の言い分は間違ってはいない。


 大学時代に知り合い、そして愛し合って私たちは結婚をした。

 有希子は一人っ子で、父は奈良県警の要職にあって経済的には何の支障もなく、むしろ裕福な家の娘であった。


 反して私は、愛媛県今治市の鉄工所に勤める現業員家庭に三人同胞の長男として生まれ、二年の留年を経てようやく北摂の大学を卒業した落ちこぼれだ。


 それなりの金融会社に就職はしたものの数年で辞めてしまい、金融業も失敗して今度は探偵業、安定した仕事や生活とは程遠い状況のこの私に、娘を嫁に出すに至ったどこの親が安心するであろうか。


 ましてや有希子との間に子供もいないのだ。

 別居状態が一年半以上も続いている現実を客観視してみると、彼女の両親が離婚を勧めることは当然といえた。


「好きにすればいいって、そんな言葉がアンタから出るとは思わへんかったわ。アンタって最低やわ!」


 興奮すると関西弁が出る有希子は、私の投げやりな言葉に本気で怒ったようだった。


「これまで私がどんだけ親に気遣ってきたと思うてんの。金融業で失敗したときから親は別れろって言うてたんやで。それを私が何とか言い聞かせて・・・」


 有希子は電話の向こうで泣きはじめ、言葉が続かなかった。

 そしてしばらくしてから「もうええわ!」と言って電話が切れた。


 私は有希子と離婚することに躊躇いがあった。

 

 特別な趣味や嗜好がなく、ただ穏やかな日常が好きな有希子は、何かを求めることもどこかに行きたいという欲求もなく、抑揚のない時間の推移を楽しんでいるような女性で、私は彼女と一緒にいると、絶好の湯加減の風呂に浸かっているような心地良さを感じるのであった。


 だが、有希子の病気と私の破天荒な人生と、ふたりの間に子供がいないことが、彼女の両親が離婚を強く勧める極めて的確で正当な理由であった。


 その三つの理由以上のものはなく、それ以下のものも存在しなかった。



 一方、律子さんからの兄の件だが、勤務先だったL社の担当者の名前と連絡先を訊き、数日後にコンタクトを取ってみた。


「あなたは川上律子さんの何に当たる方ですかな?」


 総務部長の岡山という男は、訝しげな顔をしているのが電話でも想像できる声で、やや傲慢な口調で訊いてきた。


「私は川上さんの知人ですが、それが何か?」


「あなたは代理で何をわれわれに要求しているのですか?」


「電話じゃ話にならないから、一度そちらに伺いたいのです。別に会社の中でなくとも外でお会いしていただいてもかまいませんよ」


 岡山部長は会うことをすんなりとは了解しなかった。


 何度か電話のやり取りのあと、ようやく十一月最初の金曜日に時間をとると返事をしてきた。


 律子さんの兄が会社の人事異動によって工場勤務となったことは、企業人事の都合だからやむを得ないにしても、当初は半年の工場勤務がさらに半年延長されたことは、雇用上の約束が違ってきているわけで、人事には逆らえないという昔の概念は今や薄れており、拒否することも可能だった。


 そのことによって、いわゆる出世コースから外されたり閑職に移動させられたりということも、組合が弱い企業ではあり得るだろうが、彼女の兄はそれ以前の問題で、出勤をしなくなってしまったのだ。


 異動の約束が会社から反故にされたというショックと、工場勤務の疲れの蓄積から精神的に障害が発生し今に至っているのだから、原因は就労中にあって会社側に責任が所在することは明らかだと私は思った。


 律子さんの父が公的な法律相談所に行ってみたが難しいと言われたということは、訴訟では時間もかかり、勝訴を得られるかどうかは分からないという解釈だろう。


 そんな手段より、話し合いで示談にしたほうが早いと私は考えた。


 L社との約束の日、鞄の中には律子さんの兄、川上洋平氏の実印が押された委任状と、白紙の約定書、覚書や念書などを用意して出向いた。


 八尾市の本社へは交通機関を利用し、約束の午後一時の少し前には到着した。


 受付の女性にアポイントを取っていることを告げるとすぐに三階の応接室へ案内され、少し経ってから恰幅のよい四十代半ばと五十代と思われるふたりの男性、そして白髪が混じった初老の紳士が現れた。


 名刺を交換してみると若い方が岡山で、年配のほうが取締役経理部長と書かれており、初老の紳士は顧問弁護士とのことだった。


「岡田探偵調査事務所さん・・・、探偵業をされていらっしゃるのですかな?」


 岡山が名刺を見て不思議そうな顔をして言った。


 事務の女性がお茶をテーブルの上に置いて退き、私は遠慮なくひと口飲んでから答えた。


「ひとりで細々とやっています。昔で言うところの興信所です」


「そういうお仕事が現実にあるんですな。ところで川上君とはどこでお知り合いになったのですか?」


「どこで知り合ったかですって?そういうことがお宅らにとって必要な情報なんですか?妹さんの婚約者なんです。だからいずれ身内になる予定なんですよ」


 三人は私のいきなりの挑戦的な言葉にややたじろいだ表情を見せた。

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