第四十三話

 秋がすっかり深くなり、京都の紅葉の名所もこのところ大勢の観光客で賑わっていたころ、京都のA社から四条河原町の木屋町にある「月亭」というおばんざい屋の調査案件を受けていた。


 店の調査ではなくオーナーの尾行で、つまり女性関係の調査だ。


 タッグを組まない私は、出来る限り尾行調査は受けないようにしていたが、本人は交通機関を利用しての移動なので、私一人でも尾行が可能ということで受けた訳である。


 調査依頼は別居中の妻からのもので、夫に女性がいる証拠を取って離婚を優位に進めたいという内容のものであった。


 この案件を依頼されたとき、この夫婦はまるで今の私と有希子と同じじゃないかと思ったりもしたが、私は有希子のことを嫌いではないし、浮気をしているという認識もないので、全然違うと自分に言い聞かせて調査を引き受けた経緯があった。


 そして、調査は三日目にあっけなく証拠が取れた。


 本人が店を閉めてから近くのバーで女性と合流し、そのまま河原町三条を上がったところにあるラブホテルに入り、明け方四時ごろに出て来て女性と別れ、タクシーで自宅に帰った。


 別居中なので外泊はしないという用心は窺えたが、ふたりがホテルに入るところと出てくるところはしっかりと写真が撮れていて、揺るがない証拠となった。


 朝方に事務所に戻り、隣の部屋のベッドで死んだように眠った。


 午前十時前に律子さんが出勤してくるとすぐに私の部屋に来て、「お疲れのところすみません。ちょっと相談に乗って欲しいことがあるの」と、相変わらず丁寧語とため口を混ぜて言った。


「急ぎなの?」


「出来れば早く相談したいの」


 私はベッドから出てシャワーを浴びて事務所に移った。

 今日は京都の尾行調査の報告書を作成して、証拠画像と共にメールに添付して送れば急ぎの仕事は入っていなかった。


「それでどういう相談なの?」


 私は律子さんが淹れてくれた熱いコーヒーを飲みながら訊いた。


「実は、私の兄のことなんですけど」


「うん、きっとお兄さんのことに違いないと思っていたよ」


「すみません」


 それから律子さんは兄のことについて語りだした。その内容は次の通りであった。


 彼女の兄は有名大学の工学部の大学院を昨春卒業して大阪府八尾市内のL社という精密機械メーカーに就職し、主に商品開発と設計の部門に配属となった。

 半年間はその部署で働いたが、昨年の秋ごろから現場を経験するために工場へ転勤となった。


 工場での作業は三交代勤務で、しかも仕事がきつく、真面目な兄は言われるままに残業を続け、今年の正月に実家に帰ってきたときはずいぶんと痩せてしまい、体調も優れない様子だったらしい。

 

 正月三が日は家族と過ごしたが四日から柏原市にある寮に戻り、再びハードな仕事に就いた。

 律子さんも家族も心配はしていたが、現場研修は三月に終わると聞いていたのでもう少しの辛抱と励ましたという。


 ところが半年の研修の予定が、四月の年度替りで会社の方針からもう半年延長された。


 製品開発の研究所に異動できるものとばかり思っていた兄は、工場勤務の延長のショックと仕事の疲れなどから、四月下旬ごろから出勤しなくなってしまった。


 近くのコンビニなどに食料を買いに出る十数分以外、寮の部屋からほとんど出てこず閉じこもったままで、体調不良を理由にして欠勤が続いたという。


 会社側からは再三の出勤要請と診断書の提出を求められていたが、兄は一切無視を続けたため、ついには欠勤三か月を過ぎた時点で会社から解雇を宣告されたとのことであった。


「身体の具合が悪かったんだろ?診断書を出せば解雇にはならなかっただろうに」


「兄はもう働く気力が無かったのよ。だから解雇でも仕方がないの。でも、辞めるのはいいのだけど、精神的におかしくなってしまってね、鬱病って言うの?今は病院に通いながら家で療養しているんだけど、もう腑抜けみたいになってしまって、以前の兄とは別人、これって会社側にも責任があると思うのよね」


 退職理由が解雇であったため、会社から何の見舞金も保証もなかったらしいが、精神疾患が業務上のことであれば、労災保険や会社からの慰謝料も得られるはずである。


 律子さんの兄は会社側の要請に対して無視を続けたことが、何の保証も得られなかった原因と思われた。


「お兄さん、現場仕事が続いて参ってしまったんだろうな」


「うん」


 律子さんは少しだけ涙ぐんだ。


「それで律ちゃん、相談って?」


「うん、兄は工場研修期間が予定より延長されたことで精神的におかしくなってしまったと思うの。

 だから会社側の従業員に対する管理不十分になるはずだし、労災の適用と慰謝料とかをお願いしたのだけど、会社はあくまでも兄個人の問題だと言って全く応じてくれないのよ。ひどいでしょ」


「そうだな、それはあんまりだ」


「私の両親も兄もおとなしい人間で、何も会社に言おうとしないの。私、悔しくって」


「弁護士に相談しなかったのかな?市の無料法律相談所みたいなのがあるはずだけど」


「父がそういうところに一度行ってみたらしいの。でも労災が認定されるには裏付けが乏しいらしくて、兄自身に問題があるから難しいのではないかって。

 岡田さんなら何か良い方法を知っているかなと思ったの。このまま泣き寝入りするのは悔しいから」


「そうだな、人事異動の期待が裏切られたことにショックを受けたわけだから、お兄さんだけの問題ではないだろうしね。

 この前寮監さんが会社も冷たいものだと言っていたけど、従業員に対してちょっと誠意がないような気がするよ」


 先日、柏原市の寮から荷物を運び出した際に、兄の部屋で寮監が気の毒そうに言っていたことを私は思い出した。


「でも律ちゃん、お兄さんはもう退職手続きをしてしまったんだろ?」


「この前荷物を運んでくれたでしょ。あの少し前に退職したの。会社としてはもっと早く辞めさせたかったみたいだけど、私たちがずっと応じなかったの」


「それは早まったな、もう少しだけ延ばしていればよかったのに。まあともかく一度担当者と接触してみよう。数日時間をくれるかな」


 律子さんは「ありがとう」と言って再び涙ぐんだ。


 彼女の身の回りでそういうことが起こっていたのだ。

 私は兄が勤めていた会社への交渉方法をゆっくりと考えてみようと思った。


 その日の夜、律子さんが帰ったあと残務を終えて、安曇野にでも飲みに出ようかと思っていたら有希子から電話がかかってきた。


「久しぶりだな。連絡がないからちょっと心配していたんだ」


「心配してくれてるなら、そっちから電話してくれたらいいのに」


「そうだけど、八月以降ずっと忙しかったんだ。悪かった」


 有希子は「フーン」と言ってからしばらく電話の向こうで黙った。

 十数秒が経ってから、「実は、やっぱり離婚手続きをしたいと思ってるの」と言った。


「君がそうしたいって思うのか?」


「両親がうるさく言うのよ。私はもうしばらくは今のままでもいいのよ。でも体調も良くならないし、月に一度は検診に行ってるけど、いつ癌が転移するかも知れないでしょ。

 両親が子供もいないのだからって、前と同じようにしつこく言うから面倒になってきたの」


 有希子は一人っ子だから、婚姻関係が継続しているうちに両親がともに亡くなってしまったら、不動産などの資産は有希子が相続するとしても、親としては彼女が私より先に無くなってしまったら、すべては他人の私のものになることを危惧しているに違いないのだ。


 それは逆の立場から考えても当然と言えばそうなのだが、私は苛立ちを覚え、「好きにすればいいよ」と投げやりな言葉を有希子に投げてしまった。

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