第四十二話


 翌日、私は午後三時を過ぎて部屋を出た。


 阪神梅田駅から特急電車に乗り、西宮駅で各駅停車に乗り換えた。

 御手洗氏が経営する平安商事はここから三つ目の打出駅近くにある。


 一日の仕事の終わりが近づく夕方の訪問のほうが、御手洗氏も気分がリラックスしているだろうと考えた。

 今日は一発勝負のつもりだ、次はない。


 午後四時過ぎに打出駅に着き、浜側へ少し歩いたところに平安商事はすぐ見つかった。

 入り口横のガラス張りのスペースには、賃貸物件や分譲物件の資料がたくさん貼られていた。


 私は躊躇なく勢いをつけてドアを開けた。

 店舗事務所はそんなに広くなく、入ったところに低い受付カウンターがあり、その向こうに女性のスタッフがふたりと若い男性がひとり、奥は衝立で仕切られていた。


「御手洗社長にお目にかかりたいのですが・・・」


 立ち上がった女性スタッフの「いらっしゃいませ」の声が終わらないうちに私は言った。


「何でっか?」


 依頼人からは四十八歳と聞いていたが、衝立の奥から現れた御手洗氏はもう少し老けて見えた。


 髪はフサフサだが白髪が多く、浅黒い顔は艶があまりなく、疲れた中年男という印象である。

 彼は私の突然の訪問に明らかに不機嫌そうな顔付きだった。


「お忙しいところお伺いして申し訳ありません。何度か電話でお願いしたのですが、ご了解をいただけなかったものですから、いきなり来てしまいました。すみません」


「あんたでっか、何度も失礼な電話かけてきやはったのは。それに今度はいきなりでっか?ちょっと失礼でっしゃろ」


 言われてみれば当然である。彼は厳しい表情で私を睨みつけた。

 三人の従業員も仕事の手を止めて、私と御手洗氏のやりとりを見守っていた。


「お怒りはごもっともですが、少しお時間を頂戴できませんでしょうか?」


「忙しいから今日はあきまへん。訊きたいことがあるなら、あらためて電話してくれまっか。どうぞお引取り願いますかな」


 相手の立場になってみれば無理もないことだった。

 でもここで引き下がってしまったらお終いだ。

 結果を出さないとゼロと一緒だ。様々なことをハイスピードで考えた。


「御手洗さん、実は泉井麻由美さんのことでお訊きしたいことがあるんです。ほんの少しだけでもお時間をいただけないでしょうか?」


 私の言葉に御手洗氏は数秒間動きが止まった。

 従業員たちはずっと見守ったままだ。


「ちょっと外で待っといてくれまっか。すぐ出まっさかいに」


 私は店舗の外に出て待った。

 数分後、御手洗氏がブランド物のセカンドバックを小脇に抱え、不動産屋まるだしの風貌で出て来た。


「その先にあるレストランへ行きまっか」


 阪神高速道路神戸線の高架手前の道路沿いにファミリーレストランがあった。


 この時間帯、店内に客の姿はまばらだった。

 御手洗氏は「喫煙席でもよろしおまっか?」と訊いてきた。


 私は非喫煙者なのだが「それは困ります」とも言えず、「かまいませんよ」と同意した。


 店員はわれわれを最も奥の席へ案内した。

 二人ともホットコーヒーを注文した。


「それでいったい麻由美のどんなことを訊きたいのですかな?」


 しばらくの沈黙のあと御手洗氏は切り出した。


 鋭く相手を射すくめるような目だ。

 バブル景気の崩落をも乗り越えて、小さいながらも不動産業を維持している男の目だった。


 だが私も七年ほど前までは、「泣く子も黙る金融業」に関わってきたのだ。

 負けるわけがない。


「こっちはあまり時間がおまへんで。しかもいきなりで、はっきり言うてあまり気持ちのいいもんではありまへんな」


 御手洗氏はタバコにブランドのライターで火をつけて大きく吸い込み、ため息とともに煙を吐き出しながら、言葉も吐き捨てるように言った。

 大量の煙が、彼の人格とともに換気扇方向へ飛んで行った。


「大変申し訳ないと思っています。実は泉井様のお相手が、御手洗様と泉井様がすでに無関係であることを証明して欲しいと仰られているようなのです。

 実際問題として無関係を証明するなどということは難しく、直接お会いして御手洗様の口からお訊きする以外に方法がなかったのです。どうかお許しください」


「何でんねん、そんなことでっか?そういえば電話で縁談がどうのこうのとか言うてはりましたな。

 私はまた、慰謝料の追加を麻由美があんたに頼んだものと勘違いしてましたわ。そうでっか、麻由美がねえ、結婚でっか」


 御手洗氏は首を縦に何度も振りながら、まるで自分に言い聞かせるように頷き、「それはめでたい話でんなあ」と、わずかに表情が崩れ、目を細めた。


「彼女が結婚を考えていらっしゃる男性は存じ上げませんが、相当のヤキモチ妬きだそうです」


「岡田さん、あいつに言うといておくんなはれ。一切無関係やでと。そして、昔の関係は今となっては貴重な人生の思い出としてずっと持ち続けると。そういうふうに御手洗が言うてたと伝えてくれまっか。

 気の強いわがままな女ですけど料理も上手だったし、気持ちの優しいところもあるんですわ。きっと結婚したら家庭的な奥さんになるのとちゃいまっか。こころから幸せになって欲しいと思いますな」


 彼が語っていることはすべて、私のスーツの内ポケットにあるICレコーダーに録音されている。


 これを依頼人に聞かせれば、調査報告としては完璧である。

 最初の険悪なやり取りから録音されているので、わざと御手洗氏に言わせた訳ではないことも証明される。


 このあと少し世間話などを交わし、私は御手洗氏に礼を言って別れた。


「岡田さんらの仕事も大変でんな。わしらの業界も景気がエエのか悪いのか、よう分からん業界でっけど、どうか頑張っておくんなはれな」


 御手洗氏は別れ際にこう言って事務所に入った。


 昔のバブル景気で大もうけした不動産業者をはじめ、土建業者や町の小さな鉄工所の大将まで、儲けた金を何か名目を作って愛人を囲った人も多かった。

 だが、そういう関係はいつまでも続かない。


 自分の気持ちに従えば、愛人や妻への誠実さは失われる。

 両方に誠実を保つなんてことは不可能なのだ。


 男性側の立場で述べているが女性とて同様だ。

 誠実を保とうと思えば自分に正直になれないケースは多々ある。オネスティはサッチャ、ロンリーワードだ。


 自分の気持ちに正直になればなるほど、相手を傷つけ誠実さを保てなくなるのが現実なのだ。

 それは男女関係だけではなく、商取引、果ては社会自体がそういう仕組みになっている。


 御手洗氏は妻子への誠実さを保ったから依頼人と別れた。

 そういう意味では彼は自分の気持ちに正直ではなかった。でもそれでよかったのだろう。



 数日後、私はT社の応接室で報告書と録音したレコーダーを依頼人の前に出した。


 依頼人は再生された元愛人の言葉を聞いてホッとした表情になったが、その中に少し悲しげな曇った部分があるのを私は見つけた。

 過去に愛した人のことは、糸を切るようには簡単には忘れられないものなのだ。


 10月に月が替わり、難解な案件をこなしたあともT社から続々と調査依頼が舞い込み、落ち着く暇も無い状態が続いていたある日。


 律子さんが帰ったあと残務をしていたら真鈴から電話がかかってきた。


「今度の日曜日のお昼過ぎに行くよ。だめって絶対に言わないでね」


 やや強い口調で彼女は言った。


「分かった、部屋で待ってるよ。何か用意しておくもの、あるかな?」


「オッケー、じゃあシャンパンをお願い」


「シャンパンだって?」


「そうだよ。八月の誕生日のお祝いをちゃんとしてもらってないんだから」


 霧島温泉の湯治宿で、宿の番頭さんに小さなケーキを届けてもらって、ささやかながらもお祝いをしたじゃないかと思ったが、言うと喧嘩になるので控えた。


「私はケンタでチキンを買っていくからね。あとはそっちで少し料理をしてあげるから」


 相変わらず彼女は店の名前を縮めて、しかしずいぶんと弾んだ声で言った。


「真鈴」


「うん?」


「ちょっと変なことを訊くけど、君にとって、僕はどういう存在なんだ?」


「何よ、いきなり変な質問。でも、光一は私にとってはヒーローだよ。そう、間違いなくヒーロー。じゃ、日曜日ね」


 電話が切れた。私はヒーローらしい。


 私と真鈴はどうなっていくのだろう。そして、関さんはこの先、こころの平安を保って生きていけるのだろうか。

 

 このところ連絡がない有希子はいったいどうしているのだろう。

 でも私がどのように関与し、解決していけばよいのか、今は明確には分からない。


 だが、きっとそのうち、すべての解決の糸口が一気に見つかるだろう。

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