第四十一話

 御手洗氏の平安商事への電話を三日間架け続けたが、アポを取れないばかりか、ついには応対の女子社員にまで「何度もお電話をくださらなくとも、御手洗には電話があったことを伝えています」と強い口調で言われる始末であった。


 私は前線で疲れ切った兵士のように重い足を引きずりながら、夕方早い時刻に「安曇野」を覗いた。

 店内にはまだ客の姿はなく、女将さんが奥の方で煮物料理を仕込んでいた。

 懐かしい母の料理の匂いが厨房から漂ってきた。


「あら岡田さん、今日はめずらしくお早いのね」


 女将さんが片手に菜箸を持ちながら微笑んだ。

 和服に白い割烹着がとても似合っていた。


「不動産屋のオヤジに面会を拒否され続けて困っているんです」


「あら、どこかに引っ越されるの?」


「いえ、そのオヤジと新地のマダムとの愛人関係が切れたかどうか、それが問題なだけなんです」


「えっ?」


「世の中にはおかしな男女が蠢いています」


「アハハハ、可笑しいわね。でも岡田さんも真面目な顔でそんな冗談を言うから、もっと可笑しいわ」


 女将さんは大きな口を開けて笑った。


「冗談ではないんです」と言おうとしたが、女将さんの目尻から笑い涙が出ていたので言うのをやめた。


 カウンターに頬杖をついてビールを飲んでいたらスマホが鳴った。

 真鈴からだった。


「どこにいるの?」 


 いきなり真鈴が訊いてきた。遠慮のない奴だ。


「綺麗な女将さんがいるいつもの店だよ」


「フーン、そうなんだ。私より綺麗な人?」


「そりゃそうだよ。年季が違う」


 しまったかなと思った瞬間、「馬鹿!」と言って真鈴は電話を切った。

 全く私はどうかしていた。でも真鈴も冗談を分からない女の子だ。


「どうされたの?」と女将さんがご機嫌顔で訊いてきた。


「女の子を怒らせてしまいました。僕はだめな男です」


「あらあら」と女将さんが笑った。


 本当にあらあらだと思った。

 そのとき常連客が二人入ってきた。私はホッとしてビールを飲みながら作戦を考え続けた。


 御手洗氏の会社の従業員の誰かにアポイントを取って、いくらかの謝礼を手渡して同氏の現在の女性関係を訊いてみようかとも思ったが、「馬鹿げている」とすぐにその考えを打ち消した。


 ビールのお代わりをしてからも沈思黙考したが、どうにも名案は浮かばなかった。

 午後七時半を過ぎたので早めに店を出た。


 秋風が少しずつ肌に冷たく感じ始めた夜だった。

 もう一軒の気分にはならず、そのままマンションに着いて五階でエレベータを降りると、見覚えのある女性が体育座りをして壁にもたれていた。真鈴だった。


「どうしたんだ?」


 真鈴は太ももの間に挟んでいた顔を上げた。


「予備校が終わったから電話してみたら、あんなこと言うから腹が立って待ち伏せしたんだよ。私と年季が違うって、それってどういうことなのよ、光一」


 真鈴はかなり怒った顔だった。


「悪かったかなと思ってすぐに謝ろうとしたら、真鈴が馬鹿って言って電話を切ったんだ。本当だよ。

 でもともかく悪かった、ごめん、謝る。今ちょっと難しい案件を抱えていてな、苛々してるんだ。許してくれよな」


 真鈴は立ち上がって私の目をジッと見た。目に涙が溜まっていた。


「部屋に入るか?」


 真鈴は頷いた。


「晩御飯食べてないんだろ?何か作ってやろうか、インスタントしかないけど」


 真鈴は椅子に座って、膝に両手を揃えた格好で首を左右に何度か振った。


「お父さんが心配するから帰る。でも光一、もう一度訊くよ。その飲み屋さんの女将さんと私と、本当はどっちが綺麗?」


「そんなの真鈴に決まってるだろ。当たり前だ」


「それなら許す」


 真鈴は立ち上がった。私たちは抱き合って唇を合わせた。


「コーヒーくらい飲んでいかないのか?」


「ううん、今度ゆっくり来るから。だから部屋に入れてね」


 真鈴は訴えるような目で言った。「分かった」と私は答えた。


 真鈴を天満駅まで送って行くことにした。

 私は薄いカーディガンを出して真鈴の肩にかけてやった。


 扇町公園を斜めに横切って堺筋を渡るまで、真鈴はずっと黙ったままで、私も何故か言葉が出なかった。


 さっき真鈴と交わしたキスの香りに、まだ私は酔っていた。

 やっぱり私はこころから真鈴を愛しているのだ。


 何か言おうと言葉を捜しているうちに天満駅に着いてしまった。


「じゃあ気をつけて帰るんだぞ」


「大丈夫よ。それから光一、難しい案件って、前に言っていたアポイントがなかなか取れない不動産屋さんの話?」


「うん」


「そんなの、アポなんか取らずにいきなり行けばいいじゃない。光一らしくないよ。私のお父さんを捜してくれたとき、あっちこっちへ突然行ってたじゃない。光一なら大丈夫だよ。私はそう思う」


 それから真鈴は「バイバイ」と言って、うしろも振り向かず右手をヒラヒラと振って行ってしまった。


 私は真鈴の後姿を見送りながら、「そうか。そうだったな」と、不意打ちを食らったような感覚になった。


 明日、真鈴が言うようにアポイントなど取らず、いきなり御手洗氏を訪ねようと決めた。

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