第四十五話
「時間があまりないと思いますから、用件だけお伝えします。
川上君が精神疾患を患って出社しなくなり、再三の会社側からの出勤要請にも応じなかったことで解雇にした。
精神疾患の原因は会社には関係がないというお考えですよね?」
「そうですね、残業はありましたが、過労に該当するだけの労働時間ではなかったですし、本社や工場で調査を行った結果、川上君から仕事で悩んでいたという相談を誰も受けていないことが分かっています。
従って、仕事が原因での心労状態だったとは言えないわけです。こちらからは休職届を出すように何度も伝えたのですが、まったくの無視でしたから、まあやむを得ず解雇となりました」
私の前の三人はお互いに顔を見合わせて頷きながら言った。
「そんな教科書どおりのことを訊きに来たんじゃないんです。御社の従業員に対する気持ちなんです。
研究所勤務で採用した優秀な人材を、現場を経験させるために工場へ半年の研修、夜勤の連続勤務もきつかったと川上君はご家族に訴えています。
残業時間は多いときで月に六十時間を超えていたというじゃないですか。ずいぶんと疲れていて、ようやく工場勤務から解放されるとホッとしたころに、実はもう半年延長。
その従業員の精神的落胆を考えられましたか?それに何ですか、休職手続きをアドバイスして、それに反応が無かったからといっていきなりの解雇、これは酷過ぎるでしょ。
状況はともあれ、会社の方から休職扱いに手続きをするのが筋道じゃないんですか?」
「いや、先ず従業員の精神的落胆や負荷については個人の性格や資質の問題によって異なりますから、何とも言えませんなあ。それに工場研修の延長は突然伝えたわけではありませんしね」
「突然ではないと言われるが、延長を川上君に伝えたのは三月半ばですよね。半月前が突然じゃないと言われますか?どう考えたって突然でしょ。
在職中に医師の診断を受けたわけではないから、それを証明することはできませんが、仕事に関わる心理的負荷による精神障害は労災の認定基準になりますよね」
「いや、工場研修延長はもっと以前から伝えていました。正式辞令が遅くなったのですよ。
確かに就労が原因の精神障害は対象となるかも知れませんが、それを証明する確かなものはありませんし、労災適用にはできませんね」
「なぜできないのです?労働基準監督署へ駆け込んで問題にしましょうか。お宅らの出方次第では、おとなしい者も牙を剥きますよ。
穏やかに示談にしようと相談に来たのです。慌てませんからゆっくりとお考えください」
三人は苦虫を潰したような顔をした。
労災適用申請を出すと、労働基準監督署から調査が入るだろうから、会社としても避けたいのだろう。
部長や相談役と言ったって、所詮はサラリーマンだ。
自分の腹が痛まないのだから、慰謝料程度はどうにでも捻出できるだろう。
これだけの大企業になれば暴力団関係との付き合いはないはずである。
一度関わると、とことんまでむしり取られるのが分かっているからだ。そんなバカなことはしないはずだと私は踏んでいた。
岡山部長と取締役は、弁護士とも相談して返答すると言った。
グループで従業員が一万人以上もいる会社だし、ひとりの元従業員のことで事を荒立てたくないはずだ。
私は持参した約定書と念書の用紙を一応手渡し、金額はあなた方が考えて連絡をして欲しいと伝えて引き上げた。
紳士的な対話はわずか一時間足らずで終わった。
私は帰りの車中、「今日は初めての交渉だから結論は出なかったけど、何とかするから」と、律子さんのスマホへメッセージを送った。
返信は大阪駅に着いた午後四時過ぎに届き、「ありがとうございます。事務所で待ってる」と、メッセージも丁寧語とため口が混同で返ってきた。
兎我野町の事務所に戻り、律子さんに特に変わったことはなかったかを確認してみると、三十分ほど前におかしな電話が入ったと言うのだ。
「岡田さんってそちらにいますかって言うのだけど、どちら様かを訊くと名乗らないんです。
岡田さんってそちらの社長さんですかってさらに訊いてくるから、どなたか分からない人にお答えできませんと突っぱねました」
「電話は年配の男性だったんじゃないかな?」
「そんな感じでした」
「律ちゃん、それでいいんだ。名乗らないやつに答える必要はないからね」
きっと岡山か取締役が確認のために電話をよこしたのだろう。
どんな出方で来るか楽しみだ。
「それで、会社の人はどうするって言うの?」
「まだ何も決まっていないけど、必死で考えているはずだよ。わずかひとりの元従業員のことだから、逆に事を面倒にしたくないというのは、大きな会社なら当たり前のことなんだ。
僕あてに連絡が入ることになっているから、慌てないで待ってればいいよ」
「岡田さん、いろいろありがとう。嬉しい・・・」
律子さんは急に涙ぐんだ。このところ彼女はよく涙ぐむ。
きっと精神的に不安定な状態が続いているのだろう。
「律ちゃん、礼を言ってくれるのはまだ早いな。これからどうなるか分からないんだから。今夜もし予定がなかったら、安曇野でちょっと飲まないか」
「うん」と律子さんは短く返事をした。
安曇野を覗くと、週末の金曜日なのでかなり混んでいた。
顔ぶれはほとんどが常連客である。
他の店にしたらよかったと一瞬後悔をしたが、「あら岡田さん、またまたお久しぶりね。こっちの席へどうぞ」と、ひとりの客を移動させてカウンター席を二つ空けてくれた。
私は女将さんのあっけらかんとした言葉にホッとして、律子さんと腰をおろした。
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