第三十八話


 翌日曜日の朝、律子さんが住む淀川区の塚本駅前に待ち合わせ時刻よりも少し早めに着いた。


 私が愛媛の今治から大学進学で出てきてから数ヵ月後、この塚本駅から少し離れた歌島というところにある産業機械会社で短期間のアルバイト経験があるので、車を停めて見える景色が懐かった。


 あのころから二十年以上も経つのに、駅の造りや駅前の様子もあまり変わっていなかった。

 昔は喫茶店だった場所は中華料理のチェーン店になっていたが、その隣の理髪店も、さらにその隣の写真館も変わらず営業を続けていた。 


 道路の向こう側にはパチンコ店が二軒あり、その横に柏里商店街の入り口が見えた。

 私は昔とあまり変わっていない風景に安堵し、軽トラックの運転席から駅前の様子をぼんやりと眺めていた。


「岡田さん、どうしたの?」


「えっ?」


「もう三度も岡田さんって呼んだんだよ」


「ごめん、ちょっとボケッとしていたよ。さあ、車に乗って」


 律ちゃんはいつもと違ってジーンズに薄いピンクのシャツを着ていた。

 細いジーンズがよりいっそう彼女の足を長く見せていた。


「柏原市って言ってたよな」


「うん、ごめんね」


「全然気を遣うことなんかないよ、律ちゃん。僕はいつもひとりだから、急ぎの仕事がなければ、休みの日にこういう用事があればかえって嬉しいんだ」


「でも今、急ぎの案件が入ってるんでしょ。ごめんなさい」


「いや、大丈夫だよ。気にしないで」


 塚本ランプから阪神高速道路に乗り、日曜日でガラ空きの環状線から東大阪線を経て近畿自動車道へと軽トラックを走らせた。


 律ちゃんはフロントガラスを見つめたままずっと黙っていた。

 あのアッケラカンとしたいつもの彼女とは明らかに違っていた。


「どうしたんだ、律ちゃん」


「えっ、どうもしてませんよ。それより岡田さん、さっき駅で待ってくれていたとき何を考えていたの?」


「何って、その・・・塚本の駅前が二十年前とちっとも変わっていないことに感激していたんだ。学生のころにときどき駅の近くでバイトしていたことがあってね」


「フーン、岡田さんの学生時代ってどんなだったんだろう?」


「そりゃあ、大変だったな。貧しくて、寂しくて、ロマンティックでエキサイティングで、エロティックで、そして切なく辛い日々だったな」


「アハハハッ、複雑な学生生活だったのね。おかしい~、エキサイティングまで分かるけど、エロティックって・・・、アハハハッ」


 律ちゃんはこの日ようやく笑った、しかも爆笑。


 確かに私の学生時代は複雑といえば猛烈に複雑だった。


 今治の実家は貧しく、大学合格後の初年度納入金だけは父が必死で捻出してくれたが、その後はすべて自分でやっていかないといけなかった。


 北摂に大学がありながら京都市内のアパートに友人と共同生活を送り、夜は木屋町のキャバレーでバイトに明け暮れた。


 二年の留年を経て、どうにかこうにか卒業できたが、厳密に言えば自力ではなく、大阪のテキ屋の幹部の助力なしでは卒業はおぼつかなかった。


 たくさんのことをその幹部から助けてもらい、夏休みや冬休みにはテキ屋衆たちと中国や四国へ露天のバイの旅に出た。


 ハードだったが毎日がエキサイティングで、私が複雑な恋愛関係で疲れているときや大学生活で悩んでいるときも、その幹部は決して口出しをせず、遠巻きに見守ってくれた。


 失恋して自暴自棄になっているとき、「もうそんなことはええやないか。大学へ戻れ。お前にはやるべきことがあるやろ」と言って、学費未納で除籍寸前になっていた私に封筒を差し出した。


「授業料、納めて来い」と彼に言われたとき、自分の不甲斐なさに対する悔しさと、まるで親のような彼の思いやりの嬉しさに号泣した。


 有希子と恋愛関係になったのは、その前後のことであった。


 長い年月が経ち、私が街金で独立することになったとき、大阪市内の大国町というところにある彼の事務所へ挨拶に行った。


 彼は組織の中でさらに重要な位置にいたようで、恰幅も立派になっていた。

 久しぶりの訪問を懐かしみ喜んでくれたが、街金業で独立することになったと話をすると、彼は少し顔を歪めて私を責めた。


「なぜお前が街金なんかするんや?俺は正直ガッカリしてるぞ。お前はキチンとした生き方ができる人間のはずやなかったんか?」


「人生はそう思うようには簡単にいかないんですよ。それに街金だって立派な仕事です。銀行が相手にしない小さな企業を助けることもあるんですから」


 私は説明した。


 彼は苦虫を噛み潰した顔をして「何か困ったことがあったら俺に連絡して来い」と言った。

 でも結局は彼の忠告が的を得ていて、私は街金業を数年で破綻してしまったのであった。


「岡田さん、岡田さんって」


「えっ?」


「どうしたの、もう柏原の降り口を過ぎてしまったよ」


「ああ、ごめん、また考え事をしていたよ」


「変な人」


 律ちゃんはいつもと違って相変わらず無口だった。

 彼女の誘導で目的地には午前十一時半ごろに着いた。


「ここには誰が住んでいるの?」


「私の兄の社員寮なのよ。もう兄は退職してしまったけど」


 彼女の説明では、L社という精密機械の会社に勤めていた兄が退職したので、独身寮にある荷物を実家に運び出さないといけないとのことだった。

 でもそれなら兄自身がやればいいことじゃないかと思ったが、それは訊かなかった。


 広い敷地内に鉄筋三階建の寮が四棟あり、小家族向けの社宅と独身寮とが二棟ずつになっていた。


 兄の部屋は独身寮棟の二階にあり、わずか六畳程度のスペースにベッドと机と小さな冷蔵庫とテレビが置かれ、あとはかなりの数の書物だった。


「ベッドは備え付けだから運ばなくていいんです。本がいっぱいあるから段ボール箱を寮監さんに頼んでいるの。もらってくるから、ここでちょっと待ってて」


 律ちゃんはいつものように丁寧語とタメ口を混ぜて言って、部屋から出ていった。


 しかし、なぜ彼女の兄がこのような状態のまま退職してしまったのか、急な病気で入院でもしたのか、或いは何かもっと大変なことが起こったのか、思考を巡らしているところに律ちゃんが寮監と一緒に戻ってきた。


「本をダンボールに詰めるだけでも大変ですな。どうも、ご苦労様です」


「いえ、お世話になります」


 私が律ちゃんの何にあたるのかも気にする素振りもなく、年配の寮監が気さくに会釈を送ってきたので、こちらも軽く頭を下げた。


 律ちゃんは黙ってしゃがみ込み、ダンボールを組み立て始めた。


「会社も冷たいもんだわな。仕事が忙しいのは仕方がないにしても、従業員のケアをちゃんとやらんといかんわ。ほんまにお気の毒なことだ」


「おじさん、もういいの。お願いだからそれ以上言わないで!」


 律ちゃんが顔を上げて寮監に強い口調で言った。

 私は突然の言葉の強さに呆気にとられ、一瞬本を運ぶ手が止まった。


「そうやな、ごめんな。でもまあ気を落とさんように」


 戸惑った表情で言葉を残し、寮監は部屋を出て行った。


 私は再び律ちゃんが組み立てた段ボール箱に本を詰め込んでいった。


 書棚に並んでいる本はザッと見ただけで二百冊ほどもあり、小説や漫画の類もあったが、大半は物理工学関係などの専門書だったので、彼女の兄は技術関係に従事していたのだろうと思った。


 いつの間にか律ちゃんがひとつの段ボール箱の前にしゃがんで、下を向いたまま動かなくなっていた。


 近づいてみると背中が小刻みに震え、彼女は泣いていた。

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