第三十九話


「どうしたんだ、律ちゃん」


「ごめんなさい、何でもないの」


 涙声で返事が戻ってきたものの、そのあと律ちゃんは両手で顔を覆って激しく泣いた。

 私は何がなんだか分からないまま、彼女の横にしゃがんで背中を抱いた。


「律ちゃん、ベッドに座っていたらいいよ。これくらいの荷物ならひとりで十分だから」


「ごめんなさい・・・」


 帰りの高速道路でも律ちゃんは元気がなく、ときどき涙ぐみ、ずっと黙ったままだった。


 私は彼女の様子をじっと見守りながら注意深く軽トラックを走らせ、阪神高速の塚本ランプから降りて駅の近くまで来た。


「その交差点を左に曲がってください。そして最初の十字路を右に」


「家の中まで上がり込んで運んでいいのかな?」


「うん、お願いします。今日はお盆前で誰もいないから」


 律ちゃんは泣き疲れたような顔をして言った。

 いつもの快活な彼女とは別人のようで、言葉遣いまでもが丁寧になっていた。


 律ちゃんの家は小さな木造二階建ての戸建だった。

 玄関前に軽トラックを停めて、律ちゃんは軽いものを、私は冷蔵庫やテレビや書籍が詰まったダンボールを部屋の中に運んだ。


 玄関を入ったところの板の間にすべて置いて欲しいと言うので、そのとおりに並べていくと作業は三十分ほどで終わった。


「本当なら上がってもらって何か食べて帰って欲しいんですけど、誰もいないから、駅前の中華でも食べませんか?ちょっと遅くなってしまったけど」


「律ちゃん、もういいよ。今日は疲れただろ。このトラックをレンタカー屋に返してから僕も帰るから。

 明日また事務所を手伝ってもらわないといけないし、こんどまたゆっくり安曇野で飲もうよ」


「そんな・・・、何もお礼をしなかったら両親に叱られます」


「いいって、気を遣う相手じゃないだろ、じゃあまたね」


 そう言って私は玄関を出ようとした。


「私をひとりにしないで!お願い」


「えっ?」


 振り向くと律ちゃんがまた顔を両手で覆っていた。

 おそらく彼女の周りで何か大きな不幸が起こったのだろう。


 私はこのまま彼女を放っておけないと思い、車に乗せて梅田で軽トラックを返却してから、阪急ファイブの地下にあるレストランへ連れて行った。

 時刻はもう午後四時前になっていた。


「岡田さんって、良い人ね」


「なぜ?」


「何も訊かないのね。今日のこと」


「そりゃあ、いつもの律ちゃんと違うから、どうしたのかなって気になるけど、人にはいろいろ事情があるからね。だから無理することはないんだ」


 律ちゃんは「うん」というふうに頷いた。


 それから私たちは運ばれてきた料理をゆっくりと食べた。


 律ちゃんはスパゲティナポリタンとサラダと大きなピザを三分の一程度平らげ、アイスカフェオレを飲み干した。

 私は残りのピザとたらこスパゲティを食べ、ビールを一本飲んだ。


「それだけ食欲があるなら大丈夫だな」


「うん、ありがとう」


 店を出て大阪駅まで一緒に歩き、彼女を東海道線の下り列車が来るまで見送った。

 それから兎我野町の自宅兼事務所に歩いて帰る途中、私は今日の出来事を考え続けた。


 律ちゃんの兄に何かが起こったとしか考えられないが、彼女がそれについて話そうとするまで訊かないでおこうと思った。


 事務所に着いたころ、夕陽によって鮮やかなオレンジ色に焼かれた西の空を見上げていると、電車のドアが閉まったあとも頭を下げ続けていた律ちゃんの姿や泣いている顔が思い浮かび、この日は眠りにつくまでずっとこころから離れなかった。



 翌朝、律子さんはケロッとした表情で事務所に現れた。


 昨日涙ぐんでいた律ちゃんとは別人のようで、「昨日はありがとう。今コーヒーを淹れますね」と言って、鼻歌交じりにキッチンでお湯を沸かし始めた。


 彼女の普段と変わりない様子に、私はやや戸惑いを感じながらも安堵した。


「律ちゃん、また何か手伝うことがあったら遠慮しないで言うんだよ。それから、失業保険がもう切れたんじゃないの?まだ手伝ってもらっても大丈夫なの?」


 律子さんの失業保険給付期間は、多分先月か先々月で終了しているはずである。


「できれば、このままでしばらく手伝わせてもらっても構いませんか?」


「それはこちらとしては助かるけど、再就職はまだしなくても大丈夫なの?」


「うん、いろいろとあって、落ち着いてからゆっくりと探します」


 律子さんが良ければ私としては助かる。

 いろいろあっての部分については、こちらからは訊かないようにした。

 何かあれば彼女の方から言うだろう。

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