第三十六話

 睡眠不足の愛車を叩き起こして朝四時半ごろに出発した。

 南森町から阪神高速道路に入り、東大阪で近畿自動車道にチェンジしてしばらく走ったころに、東の空にようやく日が昇る気配が見えてきた。


「特別な関係ね」


 いきなり真鈴が言った。


 まあそうかも知れない。

 でも男女の関係なんて、いつの時代もどんな条件下に於いても脆弱なものなのだ。

 大学時代から愛し合ってきた私と有希子の関係がそれを如実に物語っている。


 私は大学生のころからずっと誠実に生きてきた。

 昔聴いたビリージョエルのオネスティの歌詞にあるように、自分に正直にどんな時も誠実に生きてきたつもりだ。

 でも、ビリーは間違っていると思った。


 正直に生きることが大切だ、そんな人は周囲にいない、君だけはそうあって欲しいとビリーは歌っていたが、正直に生きることは自然と誠実さを失っていくのだ。

 私はそのことにここ数年ようやく気づいて愕然としている。


「何で黙ってるの?後悔してるんでしょ、面倒なことになったなって。何も面倒なことなんてないからね。私には単なるひとつの通過点なんだから」


「何を勝手なことを言ってるんだ。単なるって、何だそれ?面倒なことなんて、そんなこと思ってるはずないだろ。良かったって思ってる。うん、本当に良かった」


「無理しなくていいよ」


 真鈴は吐き捨てるように言ったが、おそらく照れ隠しに違いない。


「そんなことより、大学のことだけど、僕の出身大学なんて受けるなよ。君なら目をつぶって答えを書いても合格する大学だからな。だから、K大学が合っているし、受験勉強をきちんとしていたら合格するから。大丈夫だ」


「分かってる。お父さんにちょっとだけレジスタンスしたの。K大受けるから」


「お父さんともっと会話してあげろよな。いろいろと気にしてるんだから」


「分かってるって」


 真鈴はそう言ったあと黙った。

 そして泉北の自宅へ送り届けるまでひとことも言葉を発しなかった。


「朝早いからご近所の手前もあるだろうし、僕が一緒だと変だからひとりで家に入れよ。お父さんにはあとで電話で挨拶しておくからな。ともかくお疲れ様」


「髭を剃らなかった意味がないね。じゃあね」


 真鈴は軽く微笑んでから、自宅のある団地のひとつの棟へ入って行った。



 真鈴を自宅へ送り届けてから、近畿自動車道に乗って事務所に戻る途中にT社の部長からスマホに電話が入った。

 時刻はまだ午前六時前だ。いったいどうしたというのだ?


「朝早くからすまんね。昨日の夜、何度か事務所に電話したけど、留守番電話になってたから伝言を残さんかったんや」


「どうしたんですか?こんなに朝早くに」


 私は何か自分の調査した案件で発覚やミスがあったのかを一瞬で考えたが、思い当たるようなものはなかった。

 人生ではたびたび失敗するが、調査では失敗しないのだ。


「いや、二週間ほど前に事務所に来て依頼して帰りよった、あの新地ホステスの変な調査の件やけどな、進捗具合はどうかなと思ってな。昨日依頼人から連絡が入ったから」


 そうだった。私はすっかり忘れていた。


 依頼人が泉井麻由美、すでに別れた前の彼氏と確実に縁が切れていることを証明して欲しいという、本当にヘンテコな依頼内容の件だ。


「すみません、途中経過を報告しておくべきでしたね。実はまだ何も進んでいないんです。でも報告期限は必ず守ります。

 中間報告は一週間以内に入れますから、少し待っていただけますか。八幡浜の案件は結果が出ていますから、明日には報告書をメールに添付して送りますから」


 忘れていたとは言えないので、私は苦しい言い訳をした。


「いや、依頼人は特別急いでいるわけではないから、岡田君のペースでやってくれたらええよ。ちょっとイレギュラーな案件やから、さすがの岡田君も苦戦してないかと思うてな」


 部長はそう言って電話を切った。


 部長の口からイレギュラーと横文字が出たことが意外だったが、この案件が難解だと思ってくれていることにホッとした。


 報告期限は一か月だ。あと十日余り、休み明けには急いで取りかからないといけない。


 この二週間ほど、馬酔木のマスターの弔問に訪れたり真鈴が家出をしたり、あわただしい日々が続いたことで、この案件をすっかり忘却の彼方へ葬ってしまっていたことは、私らしくないイレギュラーなことだと思った。


 事務所に戻り、八幡浜の案件をまとめ始めた。

 所在調査の報告書は結果を記述して、写した画像を添付するだけでことは足りる。

 午前十時前に律子さんが出勤してくるまでに一気に仕上げてしまった。

 

「メモを読んでくれましたか」


 事務所に入って来た律子さんはいきなり言った。


「もちろん読んだよ。レンタカーを借りるから、軽トラックで十分だよね」


「大丈夫だと思います。お休みのところを本当にごめんなさい」


 律子さんはすぐにコーヒーを淹れてくれた。

 そしてT社と京都のA社への請求書の作成に取りかかってくれた。


 私は中崎町にあるレンタカー屋に電話をかけて、明後日の朝一番で軽トラックを予約した。


「柏原市から運ぶって、そこに律ちゃんが前に住んでたの?」


 T社からの例のややこしい案件の調査方法を考えながら、何気なく訊いてみた。


「ううん、違います。私じゃないの」


「誰が住んでいたの?」


「誰って・・・」


「いいよ、無理に言わなくても。ともかく日曜日の午前10時にしよう、塚本駅前に軽トラで行くから」


「ごめんなさい」


 それから私は難解な案件に手を付けた。


 事前に依頼人から提出してもらった元彼は御手洗剛彦(ミタライ タケヒコ)、兵庫県西宮市に妻子との家庭を持つ四十八歳の不動産業者だった。


 平安商事の屋号で同市内に事務所を構えているとあった。

 依頼人は「別れてから一度も会っていないわ。連絡なんてするはずもないしね」と少し投げやりな口調で言っていた。おそらく本当なのだろう。


 金融関係にいたころは不動産業者との付き合いは多々あったが、総じて押しが強く一筋縄ではいかない輩が多かったことを思い出した。

 大手不動産会社ならともかく、個人経営に毛が生えたような不動産業者に対して、私が持つ印象はあまりよくなかった。


 今回の依頼内容は全くレアなものだ。依頼人の今の彼が年下のお金持ち。

 いわゆる玉の輿に乗りたいが異常なヤキモチ妬き。

 せめて直前に付き合いのあった男との関係が切れていることだけでも証明して欲しい、という内容である。


 本当にアンビリーバボーでクレイジーな依頼内容だと思った。

 私は調査方法に頭を悩ませた。


 調査期間は報告書を手渡すまでに一ヶ月だが、いろいろあってすっかり忘れていたので、残る猶予期間は十日ほどである。

 早く終わらせてスッキリしたい。


 御手洗氏を一週間尾行して、妻以外の特定の女性と接触が確認できたとしても、それが依頼人との関係が切れていることの証明になんてならない。


 妻以外の女性とホテルに入る現場を撮影して、それを依頼人に見せたところで何の調査結果にも該当しない。


 要するに尾行調査では元彼と縁が切れていることを証明するのは不可能なのだ。だが、他にどういう方法があるというのか?


 私は資料を見つめながら「ウーン」と無意識に呟いてしまった。

 すると律子さんが「いろいろ忙しそうなときにごめんなさん」と恐縮がるのであった。

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