第三十五話
帰ってみると、事務所の机の上には律子さんが置いたメモがあった。
A4のコピー用紙に几帳面な文字で横書きに五行ほど書かれていた。
「お帰りなさい。多分戻ってくるのは深夜だよね。お疲れさまでした。明日も10時前には来ますが、お急ぎの仕事がなければ奥で寝ていてください。
日曜日に手伝っていただく件ですが、何時でもいいの。でも出来れば午前中には柏原市に着きたいんです。
待ち合わせ場所はJR塚本駅前でお願いします。重たい荷物は小さな冷蔵庫くらいかな、あとは本がほとんどでCDも少しあるかな。
柏原市の会社の寮から塚本の私んちまで荷物を運んでほしいんです」
いつものように丁寧語とタメ口を混ぜて文字にしたメモだった。
荷物が少ないにしても、小さな冷蔵庫は愛車のトランクや後部シートには入らない。
レンタカー屋で軽トラックを借りないといけないだろう。
「律子さんの引っ越しを手伝うのね。なんだ、そういう関係だったんだ。ガックリ」
真鈴がメモをのぞき見してため息を吐きながら言った。
「引っ越しじゃないらしいんだ、よく分からないけど。でも、そういう関係ってどういう関係なんだよ」
「フン!もういいよ、私は不幸な星に生まれてるんだから」
「何言ってるんだ?ともかく明日は四時に起きるから、シャワーを浴びたら隣の部屋で寝ろよ。僕は事務所のソファーで寝るから」
だが、真鈴は律子さんの机の前に座って動こうとしなかった。
「何が不服なんだ?」
「光一が私のことを何とも思っていないことだよ」
「訳の分からないことを言うなよ。こうやって鹿児島まで探しに行ったのは、大切に思っているからだろ。
仕事関係や別居中の妻とかとは違う感情を真鈴には持ってるんだ。なぜそれが分からないんだ」
まだ真鈴は子供なのだ。
二十歳になったからといって、一気にオトナになるはずもない。
私の仕事や日常で接触する女性は個人的感情が入るものではないと言っても、自分一人を大切にしてほしいのは当然の要求である。
「シャワーを浴びろよ。汗かいただろ」
「私を一番に思ってくれてるんだったら、証拠が欲しいの」
「何だよ、その、証拠って?」
「だから、抱いてほしいの。何で分からないの、女の子に恥ずかしいことを言わさないでよ!」
最後のあたりを涙声で叫ぶように言って、真鈴は律子さんの机に突っ伏した。
環境は整っているのかも知れない。
これまで何度もまだ環境が整っていないと言って、ふたりが男女関係に突入することを頑なにとどまっていたが、もう前に進む段階に来ている気がした。
「分かったよ。奥で一緒に寝よう。シャワーを浴びて来いよ」
「うん、そうする」
私の言葉にスッと顔を上げ、途端に表情を明るくして真鈴は言い、そしてバスルームへ駈け込んでいった。
しかし、仕事関係や日常で接触する女性は別だと言ったが、徳島の関さんなんかは、ある意味ややこしい関係になっている。
「真鈴とは別なんだ」と、私は自分に都合よく言い聞かせた。
まるで傷口の応急処置を施したような感覚になったが、これまで何度も思いとどまってきたのだ。
今夜はもういいだろう。
遥か鹿児島から暴風雨に煽られながら九州を縦断して、さらに中国地方を横断して来たふたりなのだ。
絆は張りつめるほど出来上がっている。
真鈴と交代にシャワーを浴びて、エアコンの温度を少し上げてからベッドに滑り込んだ。
真鈴はすでに何も身にまとっていなかった。自然な流れのまま私たちはつながり、頭の中は無になっていた。
真鈴と知り合って一年四カ月、お互いの身の上の不如意をこころの繋がりでカバーし合ってきたようにも思える。
いろんなことがあった。
でもいったんここで棚上げだ。いつかまた棚卸をして、続編にとりかからないといけなくなるだろう。
でもしばらくはコマーシャルタイムだ。
「難しい顔して何考えてるの?」
「いや、いろいろとあったけど、お互いクリアしたなってね」
「そうだね、これからはときどき休もうよ」
「すっかり元気になったな。どうしたんだ?」
「だって、もう光一とはただならない関係になったから」
ただならぬ関係か、そうかも知れないな。でもこれでよかったんだろう。
私は急激に襲ってきた睡魔に、意識を保つこともできず、真鈴を片腕に抱いたまま眠りに沈んだ。
目覚ましを午前三時半に合わせていたが、疲労と睡眠不足でベッドから起き上がることもできなかった。
だが真鈴はサッと起き上がって、バスルームに飛び込んでいった。
ベッドから身を抜け出して窓の外を見ると、暗闇の中に常夜灯だけが灯っており、ビルの窓々はすべて眠っていた。
心地よい疲労と得体のしれない満足感が、身体を覆っていた。
「光一もシャワーを浴びて。でも髭は剃らない方がいいよ」
「なぜ?」
「だって、一晩中車の中にいたことになってるんだから」
言われればそうだ。
やっぱり真鈴は頭の良い子なのだ。知り合った時からそれは知っている。
「悪いことはしてません、私」
「悪いことって?」
「だから、さっき私を見たでしょ。でも違うの」
「違うって・・・何だろう?」
「だから、男の人とあんなところから出てきたら、悪いことをしているって思うでしょ?」
「でもしてないんだろ?」
「うん」
「大丈夫だよ、誰にも言わないし、心配ない」
「だから変なことしてないから」
「分かってるよ、悪いことも変なこともしていない、そうだね?」
私は出会ったころの会話を思い起こした。それはもう遠い昔のようにも思えた。
「エンディングって、次の何かの始まりっていう意味もあるよね」
「何のことだ?」
「だから、光一が言ってたじゃない。私がお父さんが失踪していた霧島に行ったことはエンディングだって。何のエンディングって言ってるのか分からないけど」
「そんなこと言ったかな?」
「これだもんね、まったく」
生意気な口の利き方は親密度のバロメータだから仕方がない。
私はバスルームへ飛び込んだ。決して髭を剃らないように注意しながら。
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