第三十二話
風雨は明け方になるとますます強くなり、窓の下の天降川の激しい流れの音も次第に大きくなってきた。
朝食をいただきながらテレビのニュースを観ると、台風は間もなく鹿児島の指宿近辺に上陸すると報じていた。昨夜、仲居さんの言った通り直撃である。
「どうする?」
真鈴が食欲旺盛に二膳目のご飯をつぎながら言った。
昨日、私の身体にぶつかってきて号泣したときの彼女とは別人のようだった。
人は人によってこころが救われるものなのだと、私はあらためて思うのであった。
こんな魑魅魍魎なクソのような娑婆世界に於いて、ひとりで生きていくことは至難の業と言える。
ましてや高校生の身で、母も出家してしまったあと、長い年月を真鈴はひとりで暮らしていたのだ。
ようやく父が帰ってきたからといって、すぐにその傷跡が癒えるものではないことは、むしろ当然のことだと私は思った。
「明日の金曜日のうちに、できれば早い時間には大阪に帰りたいんだ」
「仕事が入ってるの?」
「いや、仕事は八幡浜の案件の報告書を書くだけなんだけど、律子さんの頼みで、日曜日に手伝わないといけないことがあるからね」
「どんなこと?」
真鈴は左手に茶碗を持ち、右手に持った箸で川魚の切り身をつかみながら言った。
少し不服そうな顔つきになっていた。
「いや、柏原市というところから、律子さんの家のある淀川区まで、何か荷物を運んでほしいらしいけど、詳しくは何も聞いていないんだ」
「何か分からないのに手伝うんだね。変な人」
「何を怒ってるんだ?事務所を手伝ってもらってるんだから、それくらい構わないじゃないか」
真鈴は「フン!」といった顔つきで川魚の切り身を口に入れ、ご飯をかき込んだ。
たまに見せる機嫌が悪い時の顔つきである。
「だから、台風が上陸する前に鹿児島を出て、高速道路を乗り継ぎながら飛ばすと、途中休憩をとっても明日の朝までには大阪に帰れると思うんだ」
真鈴は食後のお茶を飲みながらしばらく考えているようだったが、「私は嫌、もう一泊するから。光一だけ帰って」と言うのであった。
困った奴だと思いながら私は小さくため息を吐き、「お父さんに真鈴を見つけたから連れて帰るって報告するからな。勝手なことは僕が許さない」と言った。
「私はオトナだし自由よ。せっかく鹿児島に来たから、もう少しあちこち周ってから帰る」
真鈴の言葉を無視して、私は沢井圭一氏のスマホに電話をかけた。
彼は数回のコールで出た。
「真鈴さんを見つけました。明日の明け方までには大阪に連れて帰りますから、心配ありません」
「えっ、本当ですか、それで真鈴はどこにいたのでしょうか?」
私は沢井氏の質問には答えず、「さあ、ちゃんと謝るんだよ」と言ってスマホを真鈴に手渡した。
彼女は受け取るのを嫌がったが、私の怒った顔を見て、素直に手に取った。
「うん、そう。うん、大丈夫。ごめんなさい。うん、そうするから、心配しないで」
沢井氏と何を話しているのかは分からないが、素直に頷いていたところをみると、帰る気になったようであった。
「ウーン、それは・・・、ちょっと待って」
そう言ってから真鈴は私にスマホを戻した。
応対に出ると、沢井氏が「すみません、どこにいたのかを訊いても答えてくれないんですよ。どちらなんでしょうか?」と言った。
「霧島です。あなたがずっといらっしゃった湯治温泉宿に彼女はいたんです。僕はここにいると確信を持っていました」
沢井氏はしばらく黙ったままであった。
「真鈴を叱らないでやってください。無理もないことなんです。でも、ここに来たことで、ようやくエンディングなんです」
「えっ、何でしょうか?」
「いえ、何でもありません。ともかく、台風が追いかけてきますから、早めに宿を発ちます」
エンディングだ。真鈴の心の蟠りは、ここにたどり着いたことでエンドを迎えたに違いない。
これからは本当に両親との暮らしを修復していけるだろう。
「さあ、食べ終わったら朝風呂に入って、それから出発するぞ」
暴風雨圏内に入る前には車をスタートさせないといけない。
真鈴は「何だよ、人の意見も無視して」と不平を言いながらも、私の言葉に従った。
フロントにいた、沢井氏のあとの支配人補佐役のような年配の男性に昨夜のケーキの礼を言い、支払いを済ませた。
「本当にこれからお発ちになるのでしょうか?」
「もう一泊すれば台風も通過するでしょうけど、どうしても明日のうちに大阪に着かないといけないんです」
「どうかお気をつけて。無理せずに無事にお帰りできるように祈っています」
「ありがとうございます」
ここに来ることはもうないだろうと思うと、少し寂しさを感じたが、宿の外に出るとそんな感情は吹き飛んだ。
猛烈な風雨であった。
愛車をスタートさせた。
横川インターチェンジから九州自動車道に乗ると、うしろから強い風の援護を受け、まるで早く大阪に帰れと暴風雨から促されているような気がした。
途中、以前調査で訪れた懐かしい玉名あたりを通過したときは、少し休憩しようかとも思ったが、追い風を受けているうちにできる限り北上したいと思い、結局古賀サービスエリアまで休みなく飛ばした。
助手席の真鈴はひとことも言葉を発さず、かといって眠っているわけでもなく、ずっと黙って前方を見つめていた。
まるで自分のこれから先の人生が見えているかのような目つきで、ジッと前を見ていた。
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