第三十一話

 私の首の下あたりに顔をうずめた真鈴は、しばらく嗚咽していたが、やがて静かに涙を流し、五分ほど経つと完璧に泣き止んだ。


 その間、私は何も言わずに彼女の肩の上下が収まるのを待った。


「お父さんから連絡がきたんだ」


「何て?」


「真鈴がなかなか許してくれないって言ってたよ」


「フーン」


「お父さんも一生懸命なんだから、もう許してあげたらどうなんだ。君が許してくれないのが辛いって言ってたよ」


「そんな簡単なものじゃないよ。お母さんだって、後遺症のような状態が続いているんだから」


 真鈴はようやく顔を上げて言い、私から離れた。

 私のシャツの右胸のあたりは真鈴の涙でびっしょり濡れていた。


 彼女の言うことは理解する。

 一家の柱が突然、何の予告も前触れもなくいなくなり、六年半も行方知れずだった事実は消えないし、失踪によって残された家族のこころの深い傷は簡単に癒えるものではない。


「時間が解決するって。だから焦るなよ。少しずつ家族が分かり合っていけばいいじゃないか」


「光一はひとり暮らしだから、そんな気楽なことを言うんだよ。奥さんとどうするのよ?」


「うるさいなぁ。心配してこんなところまで来てやったのに、そんな言い方ないだろ」


「ありがと、追いかけてきてくれて嬉しいよ。でも何でここって分かったの?」


「それはな、僕が持つ独特の勘なんだ。誰にも負けない。いや、たまには宮津の女将さんとかに負ける時もあるけどな」


「何?宮津の女将さんって」


「いや、何でもないよ」


「相変わらず変な人。さあ、部屋に戻って飲も!」


 真鈴は私の手を引っ張った。こちらの心配をあまり分かっていないようだった。


 だが、彼女はまだ二十歳になったばかりだ。

 様々な出来事をすぐに消化できる年齢ではない。

 悩んで無謀な行動に出ることは、考えてみれば責めるようなことではないのだ。


 真鈴の部屋は二つ隣だったが、私の部屋で三日遅れとなった彼女の誕生日を祝ってやることにした。

 部屋の内線電話で小さくてもいいからケーキがないかを聞くと、町内のケーキ屋さんから配達させると言う、ありがたく親切を受けることにした。


 真鈴を部屋に待たせて、温泉街に酒屋があるというので、シャンパンを買いに出た。

 午後六時を過ぎた牧園町は太陽は分厚くどす黒い雲に隠れ、山から吹きおろす風雨はますます激しさを増していた。


 宿のスタッフから教えてもらった酒屋は、当然のように店仕舞いをはじめていた。

 私は奮発して少し高めのシャンパンを一本買い、急いで宿に戻った。


 部屋に戻ると仲居さんがテーブルに料理を並べているところだった。

 湯治温泉宿にしては川魚の刺身などが出されて豪勢で、しかも二食付きで七千円程度、ありがたいことである。


「台風が近づいているんだって」


 真鈴が心配そうに言った。


「なんだ、知らなかったの?今朝の段階で、確か沖縄が暴風雨圏内に入ったってニュースで言ってたよ」


 すると仲居さんが、「直撃らしいですよ。明日は出ない方がいいかも知れません。もう一泊されたらいかがですか」と言う。


 仲居さんが部屋から出て行ったあと、入れ替わりに番頭さんのような中年の男性が、届けられた小さなケーキを持ってきた。


「小さなケーキで申し訳ないですが、これは手前どもからのプレゼントとさせていただきます。こちらのお嬢様の誕生日なんですね、おめでとうございます」


 一年前に真鈴の父・沢井圭一が着ていたのと同じような茶羽織を羽織って男性は言い、ケーキにを開けてテーブルに置いてくれた。

 以前ここで働いていた沢井氏のお嬢さんなんですよと言おうかとも思ったが、それはやめた。

 これ以上の気遣いは申し訳がない。


 男性が去ってから、シャンパンを開け、ケーキの上にローソクを二本だけ立てて、男性が置いていったマッチで火をつけ、部屋の明かりを消した。


「三日過ぎたけど、二十歳の誕生日おめでとう」と私は言った。


 真鈴は数秒黙っていたが、「ありがと」と言い、そして「光一、キスして。お願い」と言った。

 私は彼女の横に身体を移し、片手で抱き寄せてキスをした。


「初めて会った時も暴風雨の夜だったな。憶えているかな?」


 唇を離して私は言った。


「えっ?分からない。そうだったの?」


「お化けみたいに髪の毛を垂らして、マンションのエレベータ前に走り込んできただろ、憶えていないのか?」


「ひどい言い方」


 真鈴は首を振った。

 いろんなことがあったから、一年数カ月も前に出会った時のことを憶えていないのは無理もない。


「暴風雨のことは憶えていないけど、出会った時のころの気持ちはずっと憶えているよ。毎日私のあとをつけてきた変なおじさんってね」


「アホ、こっちだって好きで尾行をしていたわけじゃないんだからな」


「でも不思議ね。何かが開けていくような感覚がずっとあったのよ」


「何だって?」


「ううん、いいの」


 私たちはそれからシャンパンを飲み、ゆっくりと食事をした。

 そして食事を終えてから、宿のありがたい心遣いのケーキを切って食べた。

 部屋の窓が強い風にときおりガタガタと音をたてた。


「二十歳になったんだからもうエッチしてくれてもいいでしょ」


 真鈴はそう言ったあとシャンパンを一気飲みし、さらにボトルを持って注ごうとした。


「だからエッチなんて言うなって。それに女の子がシャンパンを手酌なんかするなよ」


 私はシャンパンのボトルを取り上げ、真鈴のグラスに二センチほど注いでやった。


「さっき何かが開けていくような感覚って言っただろ、どういうことかな?」


「ウーン、どう言えばいいのかな。光一の腕をつかんでエスカレーターを降りて駅長室に行く途中ね、この人、何か私に力をくれるような気がするって思ったのよね」


 私の尾行に気づき、京阪電鉄京橋駅でいきなり振り返って私の腕をつかんだ真鈴。

 意外に強い力だったことは、今でも腕にその感触が残っている。


「誰に尾行を頼まれたのですか?もしかして私の父?」と言った時の、あの何かにすがろうとしているような表情が今もなお私のこころに深く残っている。


 真鈴の言う通り、父捜しのオープニングは何かに指示され、開けていく感覚を彼女に与え続けていたのかも知れない。

 その何かとは、いったいどういうものなのかは分からないが。


 私と真鈴は夜が明けるまで一つの布団で寝たが、大人の関係に突入することは辛うじて踏みとどまった。

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