第二十九話

 

 一昨日の夜、つまり真鈴の誕生日の前日、午後十時前ごろに電話がかかってきたが、そのときは彼女が怒って電話を切った。


 そして昨日、沢井氏から真鈴が家出をしたと連絡が入り、さらに今日の昼すぎに関さんから連絡があり、徳島の穴吹療育園に現われたとのことだ。


 おそらく真鈴は昨日の早朝に家を出たのだろう。

 そして、岡山か徳島あたりで一泊して、今日穴吹へ着いたに違いないと思った。


「岡田さん、どうしたの?岡田さん」


「あっ、ごめん、ちょっと考えごとをしていたよ。それで、今まだそちらに真鈴はいるの?」


「それが、せっかく遠くからいらっしゃったのに、三十分余りで帰ってしまわれたの」


 真鈴はすでに穴吹療育園をあとにしたという。


「受付にお嬢さんが来て、いきなり私の名前を言うのよ。関さんってこちらにいますかってね」


「それで、どうなったの?」


「私が関ですって言うしかないでしょ。そう返事したら、沢井さんのお嬢さん、父がお世話になっていますって言って、伯母に会いに来ましたって」


 真鈴の伯母、つまり沢井圭一の姉である沢井悦子は、昨年私が会ったとき、すでに誰かを識別することが出来ない状態だと西川医師が言っていた。


 私が面会をしたときも、悦子は文字にすると「ごーいぅーわー」という感じに唇を歪めながら挨拶をしてくれた。

 そのとき、私は胸の奥底から鼻にかけてガツーンとくる何かを感じ、目頭が熱くなったことを思い出す。


「真鈴は悦子さんと面会したんだね?」


「そうなの。あいにく西川先生はいらっしゃらなかったんだけど、担当の看護士が状態を説明していたはずだわ」


 真鈴が療育園を訪ねた目的は、本当に伯母に会うためだったのだろうか?


 もちろん、父からずっと知らされてなかった伯母の存在が分かったのだから、身内として会いたいと思うのは自然なことだろうが、家出をして何の予告もなしに訪ねた意図は、おそらく関さんを見たかったのではないかと私は思った。


「そこから、次はどこに行くって言ってなかったかな?」


「それは、私も訊かなかったし、お嬢さんも特に何も言わずに帰られたわ」


「そうなんだ」


「ともかく、一応報告しておこうと思ったの。私、仕事に戻らなくっちゃ。岡田さん、こっちに来てくれる予定はないの、私の彼氏でしょ?」


「ああ、そうだね、もちろん彼氏だよ。連絡をありがとう。時間を作って会いに行くから、もう少し待って。たまには西条の実家に帰ったほうがいいよ」


 関さんは「分かってるわ、それじゃ」と言って電話を切った。


 真鈴が穴吹療育園を訪れたことは驚きだったが、そのあといったい何処へ向かったのだろう。


 関さんも私のことを彼氏と認識しているようで、いつまた穴吹に来てくれるのかと言っていた。


 先日の彼女の実家への急な帰省は、ひとつのイベントでは終わらなかったのだ。

 私は自分のことを、まったく無責任な男だと数秒間、猛烈な自己嫌悪に陥った。



 事務所に戻ると律子さんが、「どうしたの?すごく顔色がお悪いですよ」と、相変わらず丁寧語とため口を混同して言った。


「いや、大丈夫だよ。それより昨日言っていた土日の件、今度の日曜日に一応予定しておいてくれますか。明日からT社の所在調査のあと、ちょっと鹿児島へ行ってきますから、留守を頼むね」


 私も彼女に負けずに丁寧語とため口とを意識的に混同して言った。


 律子さんは「いいんですか?急がなくても大丈夫なんだけど」と申し訳なさそうに言った。


 所在調査はたまたま愛媛県の八幡浜市が現場だったので、そこの調査を終えてから、フェリーで臼杵まで渡り、鹿児島へ向かいたい。


 真鈴はきっと霧島の妙見温泉に向かったに違いないと、私は根拠など全くない確信を持っていた。



 翌日、律子さんが出勤してくる前に事務所兼居宅を出て、車庫で眠っていた愛車を叩き起こして四国の愛媛へ向かった。


 大阪から愛媛県の松山方面への高速道路で瀬戸内海をまたぐ橋の選択は、実質三通りある。

 一般的なのは、瀬戸大橋か明石鳴門大橋を渡って、松山道や徳島道を西へ走る方法だが、もうひとつは広島県の尾道市と愛媛県今治市を結ぶしまなみ海道である。


 しまなみ海道は瀬戸内海を走行中の景観が素晴らしく、かなり遠回りになったとしても、本当はこちらを利用して八幡浜へ向かいたかった。


 だか、故郷の今治市をどうしても通過しないといけない関係で、長く帰省していない私としては辛い気持ちになることもあって、先日関さんを実家に送って行った際に通った瀬戸大橋を渡って向かったのであった。


 向かう途中、午前十時半ごろに瀬戸中央自動車道の与島サービスエリアで降りて、一応真鈴に電話をかけてみた。

 出ないだろうと思っていた予想に反して、彼女はシレッと電話に出た。


「どうしたの?」


「どうしたのって、いったい今どこにいるんだ?」


「地球にいるから、心配しないで」


「アホ、真面目に答えろよ」


「日本のどっかだよ。でも心配しないで、大丈夫だから」


 真鈴は小さなため息を吐いて言った。


「オトナなんだろ、知ってるよ。でも心配はする。大事な女の子だからな、分かるだろ?」


「心配してくれてありがと。今週中には帰るから、約束するわ」


「うん、待ってるよ」


 私が返事すると数秒間の沈黙があって、それから真鈴は電話を切った。

 

 今いる場所はあえて訊かなかった。


 八幡浜の仕事が終われば、おそらくこれから真鈴が行こうとしているだろう場所へ私も向かうからである。


 ちょうど一年余り前に仕事で訪れた大洲市で松山道から降りて、八幡浜市内に入ったのは午後二時を過ぎていた。


 事前に机上調査していた現場は、市内の中心部から少し北西方向の川之石港近くの二階建て共同住宅であった。


 車を近くに停めて該当部屋の近隣を数軒訪ねて聞き込みを行い、夜間の工作訪問に備えた。


 依頼人から捜してほしいと依頼があった人物は、ここの住宅の一室でひとり暮らしをしているようだった。

 あとは、夜間訪問して本人の写真を撮れば終わりだ。


 昨今、こういった所在調査は、まったく手掛かりがないケースは難航するが、何か糸口があれば特殊な方法で、現住所が机上判明することも少なくない。その方法は勿論企業秘密ではあるが。



 余談となってしまったが、私は午後七時を過ぎてから本人宅を訪れた。


 シャツの左胸ポケットには、レンズの部分だけを出したスマホを入れて、ビデオ撮影をオンにしてからドアを叩いた。


 本人は在宅しており、新聞の勧誘を装った私を疑いもせずに応対に出て、勿論勧誘は断られたが、宿に帰ってスマホを確認すると、本人の顔は鮮明に撮影されていた。


 さて、翌日は八幡浜フェリー乗り場から午前九時四十分の臼杵行きがあり、それに乗って臼杵から南へドンドン下れば、夕方までには霧島市へ着くはずだ。


 私は長時間の運転の疲れで、この日は調査終了後、市内の安ホテルに帰るとすぐに寝てしまった。


 ところが朝起きてテレビニュースを観ると、何と季節外れではないものの、少しだけフライングした台風が沖縄方面へ近づいているとのことだった。


 急いで八幡浜フェリー乗り場へ向かい、着いてみると八幡浜港から九州へのフェリーは特に欠航などなく、今のところは予定通りに運行しているとのことであった。

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