第二十八話



「真鈴さんが家出したって、それはいつですか?私は昨夜、電話で話をしましたけど」


 真鈴から電話がかかってきたのは、確か午後十時前だったはずだ。


 そのとき私が、「明日の夜なら会えるが、都合のつく時間は夕方にならないと分からない」と言うと、彼女は怒っていきなり電話を切った。


「朝起きたらいなかったんです。夜中に家を出たのか、朝早く出たのか分かりませんが、机の上に短い書き置きがありました」


 沢井圭一は歯切れの悪い喋り方で言った。


「何て書いていたんですか?」


 沢井氏は短い書き置きの内容を読みはじめた。

 だが、家出の原因に該当する言葉は何ひとつ書かれておらず、ちょっと近くのスーパーに買い物を思い出したから、という程度の書き置きだった。


「しばらく旅に出ます。もう私、オトナだから捜さなくてもいいよ。気持ちと考えが落ち着いたら帰って来ます」


「何かあったんですか?」


 私はとりあえずという感じで訊いてみた。


「岡田さんには何も相談していなかったんですね。恥ずかしい話なんですが、妻がなかなか以前の状態に戻ってくれなくて、いえ、それはもちろん私に全面的に原因があるのですが、真鈴も最近は苛立っていたようです。そのほかにもちょっといろいろとありまして」


 沢井氏は言いにくそうに小さな声で語った。


「今日は日曜日なんですけど、私は急ぎの仕事で夕方までは時間が取れないのですが、沢井さんがご都合よろしければ、夜少しお会いできませんか?」


 沢井氏は「よろしくお願いします」と言った。

 私たちは大阪環状線と南海電鉄の新今宮駅乗換口辺りで、午後六時に約束をした。


 電話を切ってから、私はスマホから真鈴に電話をかけてみた。

 だが数回のコールのあと留守番メッセージになり、「岡田だけど、どうしたんだ?大至急電話でもLineでもいいから連絡を欲しい」と伝言を残した。


 そのあと念のためLineメッセージで「お父さんから聞いたよ。旅に出たって?もうオトナだから大丈夫だと思うけど、仕事が手につかないくらい心配している。

 今どこにいるのかを連絡して欲しい。すべてを投げうってでもその場所へ飛んでいく」と送り、探偵アニメが深刻そうな顔をしているスタンプもそのあと送った。


 だが、午後二時過ぎに報告書を書きあげるまで、真鈴からは何の連絡も返ってこなかった。


 報告書を取り急ぎメールに添付して京都のクライアントへ送り、T社から受けた所在調査の案件の事前準備を律子さんに依頼した。


 出かけ際に律子さんが、「いつでもいいんですが、近いうちに土日のどちらか、個人的なことでちょっと手伝ってほしいことがあるんです」と元気のない表情で言った。


 真鈴のことが気になるが、「いいよ、明日よければ詳しく話を聞くから」と言って事務所を出た。


 律子さんも何か悩みがあるようだ。

 真鈴にしても関さんにしても、そして律っちゃんも、みんないろんなことで悩んでいるのだろう。


 私だけが、多くの考えないといけないことを段ボールに仕舞って山積みにしたまま、ずっと先送りしているような気がした。


 新今宮駅を出て南海電鉄の改札口の近くで沢井氏を確認し、私たちはいわゆる新世界と呼ばれる界隈の居酒屋に飛び込んだ。


 彼にとってはひとり娘の大事な相談なのだが、彼の方から「暑いですから冷たいビールでも飲みましょう」と言ってきたからであった。


「よく考えてみると、岡田さんとはちょうど一年ほど前に妙見温泉でお会いして以来ですね。その節は本当にお世話になりました」


 沢井氏は席についてからいきなり言った。


 本当にその通りだと思った。


 一年前の七月、私は穴吹療育園の関さんの情報を頼りに、何の事前準備もせずに霧島市牧園町の妙見温泉のある湯治宿を訪ねた。


 関さんの情報通りに、沢井氏は田丸本館という温泉宿で番頭のような立場で働いていた。

 そして、訪ねた日の夜、私は沢井氏に対して有無を言わさない強い態度で接し、真鈴のもとに帰ることを促した。


 あれから一年、電話では二度ばかり話をしたことがあるが、こうやって会うのは田丸本館以来である。


「真鈴さんと何かあったのですか?」


 私は単刀直入に訊いた。


「これがお話しした真鈴の置き手紙なんですが」


 沢井氏はズボンのポケットから一枚の折りたたんだ紙片を取り出して、私の目の前にそれを広げた。

 見たことのある少し角張った丁寧な文字で書かれた置き手紙。

 置き手紙と言うよりも置きメモだと思った。


「オトナだから捜さなくていいよ」って、生意気なことを書きやがって、でも絶対に捜し出してやる。


「実は、すべては私が悪いのです。昨年暮れに戻って来てから妻には何度も詫びて、これからは必死で頑張って空白を取り戻すと伝えたのですが、やはり失踪した理由が女性がらみもあっただけに、なかなか許してもらえません」


 沢井氏は苦虫を噛み潰したような表情でそう言って、グラスのビールを飲み干した。


「信仰に走った宗教は続けてもらっても構わないんですが、もちろん今もときどき教会へ出向いています。

 でもそんなことより女のもとに走った私をどうしても許そうとしないんです。口を利いてくれないんですよ、それが辛いんです」


 私は沢井氏のグラスにビールを注ぎ、「少しずつ信用を取り戻せばいいんじゃないでしょうか。しかし、真鈴さんが家出をした理由はご夫婦のことが原因なんでしょうか?」と訊いた。


 沢井氏は少し考える素振りを見せてから、「いえ、もちろん私たちの夫婦仲がすぐにはもとに戻らないのは、真鈴も仕方がないと思っているはずですが、そのことよりも来年受験する大学のことなんです」と言った。


「K大学を受けると聞いていますけど」


「それが、私立の大学に行きたいと最近言うんです。私の力がなくて、私学には経済的にやらせられなくて、K大学かまたは府立大学はどうかと言ったのですが、バイトをするから私立大学を受けると言って聞かないんですよ」


「それで、何処の私大に行きたいって言ってるんですか?」


「実は・・・」と言って沢井氏から出た大学名は、私の出身大学だった。

 K大学に比べて難易度はかなり落ちる。真鈴なら簡単に受かるだろう。


「何でまた・・・」


 私は言葉が続かなかった。


「真鈴から、その大学は岡田さんの出身大学と聞いています。あの子は岡田さんをこころから信頼しているようなんです」


 国公立大学と私立大学とでは、初年度に必要な費用や授業料などが大きく違ってくる。


 沢井氏は現在、以前の仕事で関係が深かった化学薬品会社の社長の誘いで、営業の仕事に就いているらしい。

 だが、昔のように経営者ではなく、ましてや不渡りを出したあと、実質七年近くも失踪していたことで銀行にも信用がないだろうし、娘の教育ローンなどが組みにくいに違いない。


「真鈴さんに会って、私の出た大学なんかやめておけと説得してみます」


「いえ、真鈴の希望する大学へ行かせてやりたいのですが、何しろ経済的なことで、不甲斐ない親でお恥ずかしい限りです」


 沢井氏は私に頭を下げて言った。


 ともかく真鈴の居所を捜し出さないといけない。

 どこか心当たりがないかを沢井氏に訊いてみたが、まったく分からないとのことだった。


 一時間余りで店を出て沢井氏とは駅で別れた。


 もう一軒の気分だったが、安曇野は日曜日で休みだ。


 そのまま帰って来て冷蔵庫から缶ビールを取り出し、窓の外の明かりが殆ど点いていないビルを眺めながら、「真鈴、いったい君は何処へ行ったんだ?」と無意識に呟いていた。


 電話もLineも真鈴から応答がなかったが、「もうオトナだから心配しないで」という言葉を信頼して、私は胸が張り裂けそうになりながらも、しばらくは彼女からの連絡を待つことにした。



 翌日、いつもの時刻に律子さんが出勤してきたので、昨日、彼女が言っていた「土日に手伝ってほしいこと」について訊いた。


「小さなトラックで、柏原市というところから私の家まで荷物を運んで欲しいの。岡田さんの仕事の状況で空いている土日で構いません。でも、できれば八月中に運びたいの」


 律っちゃんはいつものように丁寧語とため口を混ぜて言った。


 聞けば、電化製品がいくつかと、寝具と書籍類程度なので軽トラックで十分間に合うようだった。


 荷物はいったい誰のものなのだろうと思ったが、それはあえて訊かなかった。

 真鈴の所在が分かって落ち着いたら、律っちゃんの依頼を片付けようと考えた。


 午後から次の案件の現場地図などの整理をしたが、やはり真鈴のことが気になって仕方がなかった。

 すると午後三時を過ぎたときにスマホが震えた。


 電話の着信は関さんの勤務先の電話番号だった。

 私は自分の部屋に移動して電話に出た。


「関です、今少しだけ大丈夫かしら?」


「問題ないけど、どうしたの?」


「実は今日の昼すぎに、沢井さんのお嬢さんが突然訪ねて来たのよ」


「えっ、穴吹療育園に真鈴が?」


 私は驚きのあまり、スマホを危うく落としそうになった。

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