第二十七話
阪急梅田駅に着いたのは午後四時を少し過ぎたところだった。
有希子は「ちょっと疲れたから、このまま帰るね。今度ゆっくり来るから」と言った。
「来る前には電話をしてほしいんだ。知ってると思うけど、今は手伝ってもらっている女性をひとり雇っているからね」
「分かった、そうする。お仕事が順調そうで安心したわ」
有希子は「それじゃ」と言って、大阪駅の方に向かった。
私は彼女の後姿を見送りながら、おそらく有希子とは再び暮らすことはないだろうと思った。
少し前に夢の中に彼女が現れたときのような結果になるような気がした。
真鈴の誕生日が近づいていたのは認識していたが、いつのまにかすっかり忘れてしまっていた。
誕生日の前日も京都のクライアントから急ぎで依頼された出雲方面の調査が入っていて、真鈴から電話をもらうまで気付かずにいた。
無事に日帰りの調査を終えて、出雲から車を走らせて松江市内に入った。
もう午後六時を過ぎているというのに、夕陽はまだ宍道湖のかなり上の方で熱射を注いでいた。
松江市内を抜けて安来市に向かっている途中にスマホが震え、見ると着信は真鈴のものだった。
「いまどこにいるの?」
「ああ、今ね、今は宍道湖を渡ったところだな」
「えっ、宍道湖?」
「仕事で島根県に来てたんだ。これから帰るところだけど、どうしたの?」
数秒の沈黙のあと、スマホの向こうで真鈴の大きなため息が聞こえた。
「明日は何の日か憶えているよね?」
「明日?」
「もういいよ、バカ!」
電話が切れた。
安来市内へ車が入ったあたりで、私はようやく明日が真鈴の誕生日だったことに気がついた。
このところ、有希子と会って馬酔木のマスターの弔問に訪れたり、T社からの案件が、別れた男とすでに切れていることの証明が欲しいというヘンテコな依頼であったり、律っちゃんは先日の「泥酔事務所一泊事件」のあと、用もないのに昼間に事務所から電話をかけてきたり、私はずいぶんと疲れていた。
そんな状況だったので、真鈴の誕生日をすっかり忘れていたのだった。
真鈴の機嫌を損ねたことをどう対処しようかと考えているうちに、車は米子道に入り真庭市辺りで日が暮れた。
落合ジャンクションで中国自動車道に入り、慎重に運転だけに神経を集中して午後九時前には事務所に帰ってきた。
鞄と機材を事務所兼居宅に置いて、「安曇野」で食事をかねて飲んだ。
明日の真鈴の誕生日のことが気になったが、何故かそれ以上に今夜は有希子と過ごした日々のことを思い起こしながら飲みたいと思ったのだ。
「あら岡田さん、一週間に二度目って珍しいわね」
女将さんが包丁で刺身をさばく手をピタッと止めて言った。
店には男性二人の常連客だけだった。
「今日もまた追っかけしてはりましたんか?」
ひとりが私の顔を見て訊いてきた。追っかけとは尾行のことだ。
「追っかけは女子高生に捕まって以来、できるだけ断っているんですよ。プライドが崩れてしまいましたからね」
「そういえば女子高生がどうのこうのとか言うてはりましたな。岡田さんの仕事は私らにはよう分かりませんな」
そりゃそうだろう、私にだって分からないんだから。
「別れた愛人と完全に切れていることを証明してほしい」なんておかしな依頼が舞い込む業界なんだから。
生ビールを半分ほど飲んだときにスマホが鳴った。
ディスプレイに表示された番号はさっき話に出た女子高生、今は大学浪人生になっている真鈴のものだった。
私は返事をしながら店の外に出た。
「今どこにいるの?」
「どこって、いつもの飲み屋さんだけど」
「事務の人が帰ったあと、留守番電話だったからメッセージを残しておいたんだけど、ちゃんと聞いてくれたの?」
「あっ、いや、まだ帰っていないんだ。それで何かあったのか?」
「だから明日会えるの?私の誕生日だけど、それより相談があるの。明日会えなかったらどうなるか知らないからね」
「どうしたんだよ、またどうなるか知らないからって、落ち着けよ」
「明日、何時に会えるの?」
「明日は今日の調査結果を急いで報告書にしないといけないから、夜なら大丈夫だけど、会える時間はちょっと明日になってみないと分からないんだ」
「私のこと、ちっとも大切に思ってくれていないんだね。私はいつも光一を頼りにしているのに。もういいよ、勝手にして!」
真鈴は叫ぶように言って電話を切った。いったいどうしたっていうんだ。
店に戻ると女将さんが「どうされたの?」と訊いてきた。
「さっき話に出た女子高生からだったんです。今は大学浪人生なんですけど」
「何の電話だったんですか?」
女将さんと常連客の一人が同時に訊いてきた。
「明日会えなかったら、どうなるか知らないからって言うんです」
女将さんも常連客も「アハハハ」と大きな声で笑った。腹が立つほどの大笑いだった。
「それで会わなかったらどうなるんでしょうね」
「それが僕にも分からないから、明日会うしかないんです」
女将さんは口を手で覆って笑い転げていた。
私は苦笑いして生ビールをお代わりした。そして有希子のことに思いを戻そうとした。
でもさっきの真鈴の言葉が頭から離れなかった。
「明日会えないと、私どうなるか知らないから」と真鈴は言っていた。
前も同じようなことを言っていたが、そのときは同じ予備校の男性から言い寄られている件の相談だった。
今回はいったい何なんだろう。
私はビールを三杯飲み終えてから、この夜は早々と店を出た。
女将さんが「あら、もうお帰りなの?」と不思議そうに言った。
「女性は難しい生き物です」と私は答えた。女将さんも常連客も再び「アハハハ、それは大変。おやすみなさい」と笑った。
でも笑いごとではないのだ。
事務所に戻って電話の留守番メッセージを再生してみると、やっぱり真鈴からのものだった。
「真鈴です。明日誕生日なのにどうして電話してくれないの?受験勉強の邪魔だからって思っているのなら、そんな気遣いは要らないよ。
それより急いで相談したいことがあるの。このメッセージを聞いたら連絡ください。絶対だよ」
いったい今度は何の相談だというのだろう。
私は気になったのでLINEを送ってみた。
「明日の誕生日を憶えていたのだけど、今日は仕事が忙しくて忘れてしまったんだ。ごめんな、許してくれないかな。
明日はおそらく夜なら大丈夫だから、どうしようかな、もしこっちに出てくることが可能だったら、プランタンで食事でもして、そのあとカフェでケーキでもご馳走するよ」
私は長いメッセージを送って、アニメ探偵が謝っているスタンプも続けて送った。
だが、真鈴からは返信がなかった。時間も遅いのと疲れとで、部屋のベッドに寝転ぶと、私はすぐに眠りにおちてしまった。
翌日は日曜日、律子さんが出勤してくれるというので、朝から昨日の調査結果を報告書にまとめ始めた。
夕方までには京都のクライアントへ、メールに添付して送りたい。だが、お昼前に予期しない電話が入った。
「岡田さん、沢井さんという男性から電話です」
最初聞いたとき、真鈴の父親とは分からず、電話に出てようやく気づいた。
「岡田さん、実は、真鈴が家出してしまったんです」
真鈴の父、沢井圭一は電話の向こうで確かにそう言った。
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