第二十六話


 馬酔木のマスターへの弔問は早い方が勿論良いだろうと有希子が言うので、結局、その週の土曜日に訪ねることにした。


 七月最後の土曜日の午後一時、私は阪急梅田駅三階の改札前で有希子と落ち合った。

 有希子とは電話でやり取りはしていたが会うのは四か月半ぶり、彼女は前よりずいぶんと痩せて見えた。


 濃いグレーのスーツ姿の彼女は癌が転移したのじゃないかと思うくらいに細く見え、以前の少しふっくらした健康的な体躯とは違っていた。


「光一、痩せたね。ちゃんと栄養のあるもの、食べているの?」


 私が痩せたことを気遣う有希子は、自分の体躯の変化に気づいていないようだった。


 私はもともと太ってはいなかったが、調査業がようやく軌道に乗ってきたころ、仕事をセーブして無理のない日々を送っていた時期があり、かなり身体が弛んでいた。


 だが、律子さんに手伝ってもらいはじめてからは、事務所でダラダラとしているわけにもいかず、オファーは断らずに出来る限り受けていると、今度はまともに食事をとる時間さえないほど仕事に追われ続けている。


 おそらく、そのことが影響しているのかも知れない。


「有希子こそどうしたんだ。まさか、癌が転移したってことはないだろうね」


「大丈夫、月に一回は検診に行ってるから。私も中年になっていくから、最近は太らないように食事に気をつけているの」


 有希子は今年四十歳になる、大学で一学年後輩だった有希子、もう二十年もの長いつきあいである。


 馬酔木のマスターの姉の家は阪急京都線の摂津富田駅近くに所在していた。

 車中、有希子は意外にも饒舌だった。


 最近の彼女はよく買い物に出かけるようで、それは両親が高齢ということもあったが、生駒から大阪への反対方向の奈良市へ週に何度か出かけるのだと言った。 


「奈良公園に鹿がたくさんいるでしょ。可愛いのよね、警戒せずに寄って来るから。それと若草山にもときどき登るの。丘みたいな低い山だけど、上から奈良市内が一望できるのよ」


 有希子は楽しそうに言った。


 事務所には律子さんがいるので、それを気遣っているのかも知れないが、ここ数か月は以前のように突然来ることもなくなり、私は少しだけ寂しく感じていた。


「光一はあまり喋らないのね」


「いや、そんなことないよ。昔のことを思い出していたんだ。断片的だけど」


「どんなこと?」


「大学で、何度断っても声をかけてきただろ。あのころのことだよ」


「ひどい。でも、あのころの光一はいい感じだったよ」


「今はダメなのか?」


「そんなことはないけど、お互いに歳をとったものね、仕方がないわ」


 電車に乗りながら、有希子と知り合ったころのことを私は思い出していた。


 有希子とは大学四年目の五月に市場調査のバイトで知り合ったあと、学内で何度も声をかけられたが、そのたびにバイトで忙しいと私は断っていた。


 彼女は私が何度断っても、その時は「信じられへん、もういいわ。変な人」と捨て台詞を残して行ってしまうのだが、数日経つと学食などで再び私の横に座ってきたり、道端で声をかけてきた。


 有希子のペースで希望通りに「エキスポランド」や「六甲山」や「京都嵐山」など、あちこちで私たちはデートを繰り返した。


 そしてつき合い始めて半年以上が経ったある日、「もう私、今日で最後にする。岡田さんみたいな男の人は疲れる。勝手にやったらええわ」と怒って別れを宣言してきた。


 私は何がなんだか分からなかったが、どうやら私たちはデートを繰り返してもキスもしなかったことに原因があったようだった。


 私は有希子に「女」というものをあまり感じていなかったが、一緒に遊ぶのは楽しいと思って付き合っていた。

 可愛い女の子としか見ていなかったのである。


 それはつまり、そのころは大人の女性との恋愛関係などがあって、その余韻がいつまでも私の心の奥底に位置していて、それが動かない限り新たな恋愛など入る余地はなかったからだった。


「僕は有希ちゃんのこと好きだよ。どうしてそんなふうに言うんだ?」


「私、岡田さんのこと、どうにもならへんくらい好きになってしもうたんよ。私のことをどう考えているの?どうしたいの?馬鹿にするのはいい加減にして!」


 有希子はそう言って泣き出した。


 この夜、私たちは須磨浦公園の水族館へ行った帰り、神戸港が見えるレストランで食事をしていた。


「有希ちゃん、それは違うよ。僕は君のことが大好きだ。ただ、僕は大学生になって数年間、君の知らない世界で生活していたんだ。

 そして、それを僕は君に話せない。時間が経って話せることではなくて、ずっと話せないことなんだ。

 だから僕が君のすべてを受け入れて、すべてを包み込んで幸せにしてあげるだけの自信がない。でも一つ間違いないのは、この半年ほど有希ちゃんと付き合って、君のことが必要になっているんだ」


 私はそのときの正直な気持ちを伝えた。


 有希子はしばらく黙っていた。食後のコーヒーが運ばれてきて、それが冷めてしまうまで彼女は窓の外を見て黙って考えていた。


 窓からは神戸港のたくさんの停泊船の灯りが見えた。


「そしたら今度の日曜日、私の家に来てくれる?」


 有希子は私の目を見て訴えるように言った。


「大丈夫だよ。そうしよう」と私は返事した。

 そんなことがあって、何度断っても諦めない変な女の子と、結局は押し切られた形で私は結婚した。



 馬酔木のマスターの姉宅は阪急摂津富田駅から五分あまり歩いた住宅区に所在し、広い敷地内の古い建物はきれいにリフォームされていた。

 マスターはここで生まれ育ったのだ。


 私たちを案内してくれた姉は、一度結婚したが離婚して実家に戻り、両親が亡くなったあともずっと家を守っていた。


「よくお越しくださいました。弟も喜びます」


 私たちは広い和室に案内され、仏壇に飾られたマスターの遺影と遺骨に焼香し手を合わせた。


 遺影のマスターは大柄な身体を縮めるようにして恥ずかしそうに微笑んでいた。

 バックには洋酒棚があり、IWハーパーやワイルドターキーなどのバーボンウイスキーが並んでいた。スコッチよりもバーボンを飲ませる店だった。


 その洋酒棚の下にしゃがみ込み、身体を小刻みに震わせて「ラブ・ストーリーは突然に」を聴いていたマスターの姿が目に浮かんだ。


 沖縄で知り合った男性と別れたあと、彼は男色趣味のある客だけを対象にしたバーへ店のスタイルを変えた。

 失恋したことで何かを変えたかったのだろうと私は思った。


 姉がお茶を淹れてくれてから、私たちはマスターと過ごしたころを懐かしんだ。

 有希子は終始ハンカチを目にあてて姉の話に相槌をうち、涙を流した。

 涙もろい部分はちっとも変わっていない。


 亡きマスターを静かに偲び、懐かしむことは故人にとっては天国で喜んでいるのかも知れない。

 でも私は、店を閉めた時点で、マスターはきっと幸せというものと決別したに違いないと思うと、不思議と悲しい気持ちにはならなかった。

 マスターはバーを廃業したときにすでに昇華していた。あとの人生は付録だったのだ。


 帰りの電車の中でも有希子は様々なことを私に語り、奈良公園や平城京のお寺の美しさなどを強調した。

 どうやら有希子は奈良に魅了されてしまったようだが、それは彼女の身体には良いことだろう。


 でも、有希子の病状が安定しているうちに、私たちの婚姻関係を継続するのか、或は終わりにするのかを結論付けないといけないと思った。

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