第二十五話
有希子は意外に元気な声だった。
「実は、馬酔木(アシビ)のマスターが亡くなったの」
「えっ?」
「突然だったのよ。夜勤から帰ってきて、玄関を閉めてから部屋の上がり口で倒れたらしいの。心不全だったみたい」
「夜勤からって・・・どういうこと?」
有希子と結婚する前は、マスターはまだ堂山町の外れにある商業ビルの二階でバーを経営していた。
若いころに比べて、頻繁に訪れることはなくなっていたが、金融業を営んでいたころも、兎我野町と堂山町はすぐ近くなので、彼の顔が懐かしくなると夜遅くに店の扉を開けた。
週末には有希子とふたりで飲みに訪れることも多かった。
だが、店の営業形態が変わってしまってからは次第に足が遠のき、やがては行かなくなってしまった。
「店を閉めてからも付き合いが続いていた聡子ちゃんから、一昨日連絡があったの。もう十日以上も前に亡くなったって」
聡子という女性は商社に勤めるOLで、馬酔木の常連客だった。
有希子とは同年齢だったこともあり、今も連絡を取り合っているらしい。
「夜勤のあとって、彼はどんな仕事をしていたのかな?」
「硝子工場の作業員で働いていたんだって。聡子ちゃんが言うには、お店を閉めたのも体調がずっと悪かったかららしいの。だから工場の仕事がきつかったのかも知れないわね」
マスターが店を閉めたことは噂で聞いていた。
以前のようなバーではなく、いわゆる男色の趣味を持つ客を対象にした店に営業形態を変えたため、昔の常連客のほとんどは行かなくなっていたが、何人かの親しい客は付き合いを続けていたようだった。
当然、マスターもその趣味であることは、最初に店を訪れた夜から私は気づいていた。
でも私は、男色の趣味を持つ人たちに対しての違和感や排除する考えはなかった。
もうずいぶん昔のことだが、ある夜、客がひけて私だけになってから、「岡田ちゃん、ちょっと入り口をロックしてもらえるかな。
どうしても今すぐ聴きたい曲があるんだけど、かまわないかな?」とマスターが遠慮がちに訊いてきたことがあった。
彼はその少し前に店にかかってきた電話で、誰かと深刻そうな話をしていた。
電話を切ったときのマスターの表情は辛そうだった。
大きな悲しみに包まれている様子が見ていて分かった。
だから彼はきっと、客が気を遣わない私だけになって、自分の辛い気持ちを音楽に委ねて、少しでも静めたいのだろうと私は思ったのだ。
扉をロックしたあと彼は店の照明を暗くしてその曲をかけた。「ラブ・ストーリーは突然に」だった。
リズミカルなイントロが流れてきた。カウンターの向こうの彼は私に背を向けてしゃがんだ。
洋酒棚の微かな明かりだけが彼の背中を映し、大きな背中が小刻みに震えていた。
彼はその数ヶ月前の沖縄旅行の際、現地で知り合った男性と仲良くなったと話していた。
その男性が関西へ遊びに来たことがあって、マスターが数日間エスコートしたと嬉しそうに語っていた。
それからときどき「遠距離恋愛は辛いよね、岡田ちゃん」と、複雑な表情を見せることがあった。
だから、おそらくその男性と破局したのだろうと私は思った。
電話を切ったあと、泣きたい感情をどうしても抑えられなかったのだろう。
「ラブ・ストーリーは突然に」を二度、マスターは聴いた。
私もその楽曲を聴きながら、大学時代に遠距離恋愛の末別れた岐阜の女性のことを思い起こした。
今思えば、有希子と同時に付き合っていた女性だった。
もし有希子と結婚していなかったら、私の人生はどう変わっていただろう。
「あの日あの時あの場所で君に会えなかったら、僕らはいつまでも他人のまま」と小田さんが歌っていた。
でもそれって当たり前のことじゃないか、小田さん。
それにラブ・ストーリーは突然やって来るかも知れないが、終わりも予告なく来るじゃないか、小田和正さん。
突然始まった不思議な恋は、たいてい突然終わるものなんだ。
岐阜の彼女とはある日突然別れがやってきたことでも、それは証明されている。切なく懐かしい思い出だ。
私は有希子から馬酔木のマスターが亡くなったと聞いて、そんなことを思い浮かべた。
「それで、君はどうするの?」
「うん、そうね。遺骨はしばらくお姉さんの家に置いているらしいの。だから、光一さえよければ一緒に焼香にだけでも伺いたいと考えているの」
「そうだね。線香だけでもあげさせてもらいに行こうか。いつ行く?」
有希子は私の仕事の具合で決めてくれればいいと言った。
T社からの急ぎの仕事をもらいに行く途中だったので、案件を確認してからまた連絡すると言って私は電話を切った。
T社の事務所を訪れると、夏真っ盛りだというのに皆が忙しそうな雰囲気を漂わせていた。
自社の調査員を数名しか持たないT社は、調査の内容によって下請けを持っていて、奥の応接では私のような外注の調査員が社員と打ち合わせ中だった。
「悪いね、いきなり呼び出して。ちょっとこっちに来てほしいんや」
部長は私を個室の応接室へ呼んだ。
部長と並んで座った反対側にひとりの女性が足を組んで優雅な雰囲気で座っていた。
年齢は一瞥したところ三十代後半、影ができるほどの付け睫毛と濃いアイシャドウを塗っていた。
彼女は目が痛くなるほどの真っ白なスーツを身にまとい、組んだ足先の豹柄のピンヒールが水商売の女性を表しているように思えた。
「こちらがご依頼人の泉井麻由美さん。泉井さん、彼が岡田君と言いましてな、弊社の最も優秀な探偵ですわ」
私は軽く頭を下げてからテーブルの上の調査資料に目を移した。
彼女はセクシーな足をさりげなく組み替えて、豊かな胸を少し突き出すようにして話をはじめた。
「実は部長さんにも説明したのだけど、私の元彼との関係が間違いなく終わっていることを証明していただきたいの。つまり、今はもう何の関係もないと、何かの方法で証明して欲しいのだけど、できるかしら?」
「どういうふうに確証を取ればよろしいのでしょうか?」
私は様々な調査を担当してきたが、過去の男との無関係の証明なんてヘンテコな案件はもちろん初めてだ。
「どういうふうな確証って・・・それはあなたが考えてくださらないとね。私はお願いする側ですもの。そうでしょ?」
彼女は「そうでしょ?」の部分を、私の顔を覗き込むようにしながら言った。
少し微笑んだ口元から真っ白い歯が覗き、鮮やかな白のスーツに包まれた胸元とともに私を戸惑わせた。
「今の彼が異常なヤキモチ妬きなのよ。私の元彼のことも仕事の関係で少し知っているから、第三者的な立場の人から、私と元彼とが確実に別れていることを証明しろと言うのよ」
「どうかな、岡田君。こんなお綺麗な方のご依頼だから、何とか引き受けてくれんかな」
私が少し考え込んでいると部長が横から言った。
依頼人の綺麗も不美人も関係がないが「できるかしら?」などと言われたとあっては、差別調査や復讐屋や別れさせ屋のような公序良俗に反する調査依頼でない限り、私は必ず引き受ける。
「分かりました。方法については私が考えます。もちろん相手には絶対に分からないように結果を出しますのでご安心ください」
泉井麻由美はニコッと笑って「それじゃ、よろしくね」と言い残して立ち去った。
懐かしい香水の香りが微かに残った。その香りに包まれて過ごした日がよみがえって来そうな気がしたが、誰のものだったか思い出せなかった。
「悪いな、岡田君。こんな変な依頼をこなせるのはアンタしかおらんのや」
依頼人が帰ったあと部長と調査方法について打ち合わせを行った。
こういう調査は若手スタッフでは難しく、私のような何でも屋が担当することになる。
「これはかなり難しい調査ですよ。調査というよりも、証拠取りですけど」
「依頼人は必死みたいやから、前の男と会っていないことは間違いないやろうけど、それをどう証拠を取って報告書にまとめるかやな」
部長は難しい顔をして考え込んだ。
私は調査指示書を受け取ってT社を出た。
馬酔木のマスターの弔問に訪れる日を決めて、有希子に連絡をしないといけなかったが、過去の男と切れていることの証明なんていう妙な案件が、私の歩く速さを緩慢にし、有希子への電話をためらわせていた。
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