第二十四話
「律っちゃん、正直に生きることと誠実さを守ることは別なんだ、分かるかな?」
「何ですか?」
「正直に生きることがね、誠実だっていうのはおかしいって言ってるんだよ」
「何ですか?分かんないです」
「ビリージョエルは偉大な音楽家だけど、ちょっと間違っていたんだ」
「えっ、ビリージョエル?」
「いや、何でもないよ。ウイスキーを飲もう」
「岡田さんって、変な人」
律子さんは馬鹿にしたように笑った。
この日は名古屋の天白区にある新興宗教の調査でかなり疲れていた。
右手にはいつの間にか、律子さんの温かい手がつながっていた。
曽根崎通りからお初天神あたりまで歩いたところで、私はついに記憶が薄れていくのを感じた。
翌日、目を覚ますと隣に若い女性が寝ていた。
律子さんであることはすぐに分かったが、なぜ彼女が私と一緒に寝ているのかが皆目見当がつかなかった。
窓から見える兎我野町のビル群はすでに灯りがついていて、時計を見ると午前十時を過ぎたところだった。
「おはよう、岡田さん」
私がベッドに身体を起こした振動で律子さんが目を覚ました。
「どうして律っちゃんが横に寝てるんだ?」
「どうしてって、昨日の夜、安曇野を出て曽根崎通りのショットバーへ入ったでしょ。それから岡田さんが酔っ払ってしまったから、律子が送って来たんだよ。
もう重くて大変だったんですよ。男の道とか渡世の仁義とか、それにビリージョエルがどうのこうのとか、意味不明なことばかり叫んでいたし、本当に手に負えなかったんですよ。覚えてないの?」
律子さんはベッドに肘をついて頭を乗せ、私を見上げて、ため口と丁寧語を混ぜて言った。
黒のスリップの胸元から少しだけ覗いた膨らみが、寝起きの朦朧とした頭の私をギョッとさせた。
「律っちゃん、・・・何もおかしなことはなかっただろうね」
「おかしなことって?」
「だから、つまり、エッチとか」
「凄かったわ、まるで猛獣。明け方まで三度だよ。私もうクタクタ。憶えていないの?」
「マジかよ、有り得ん」
「マジだよ、有り得ないなんて失礼なこと言わないでよ」
まったく記憶になかったばかりか、身体にも余韻のようなものは残っていなかった。
律子さんは誰が見ても美人だし、安曇野には彼女と会える可能性を求めて店にくる客も多い。
そんな彼女との幸運を得たにもかかわらず、まったく覚えがないことに、私はしばらく自己嫌悪に陥ってしまった。
「嘘よ」
瞼を指で押さえて絶句している私に、律子さんは笑いながら言った。
「えっ?」
「岡田さん、ベッドに倒れこんですぐに寝てしまうんだもの。スーツを脱がせるのがひと苦労だったんだよ。こんな美女とエッチできるチャンスだったのに、信じられない人」
律子さんは口を尖らせて言った。
私は過ちを犯していないと分かってホッとした。
「ともかく、仕事だ。律っちゃんもシャワーを浴びたら隣の部屋へ移って、電話番と事務をお願いします」
「エッチしないの?」
「君はアルバイトで来てもらっているんだからね。何かあったらご両親に申し訳がない」
「親なんて関係ないじゃない」
「ともかく、仕事をしよう。T社から急ぎの電話があるかも知れないから」
「岡田さんの馬鹿。女が思い切って誘っているのに、絶対に許さない」
律子さんはベッドに座ったまま不貞腐れた顔をしていたが、無視をしてバスルームに飛び込んだ。
このところ、真鈴も関さんもエッチしてとか、帰らないでとか、一気に私はモテ期に突入したのかも知れないとも思ったが、馬鹿げていると頭を振った。
シャワーを浴びて出ると、律子さんはまだフテ寝をしていたがわざと無視をした。
「律っちゃん、僕は報告書を書かないといけないから仕事にかかるよ。まだ寝ていてもいいけど、どうする?」
「もう本当に失礼な人。安曇野のママに、岡田さんに無理やり連れ込まれたって言ってやるからね」
「好きに言えばいいよ」
律子さんの言葉に内心はビビったが、平静を装ってコーヒーを淹れ始めると、ようやく諦めてバスルームへほぼ全裸で飛び込んでいった。
出てきたときには、リビングに置いている小さなテーブルに熱いコーヒーを用意してやった。
「このコーヒー、美味しい」
「律っちゃん、早く服を着てくれないかな。目のやり場に困るから」
「じゃあ今から抱いて。そんなに深く考えなくていいじゃない。心配しなくたって、律子はあとでグダグダ言うような面倒くさい女じゃないからね」
「抱いてってそんなに簡単に言うなよ。そんな言い方は良くないぞ。僕が悪い奴だったら抱くだけ抱いてそれで終わりなんだぞ。そんなのでいいのか?
僕はやり逃げみたいなセックスは嫌だな。律っちゃんはスタイルもいいし、安曇野でも人気の女の子だ。でもそんなに簡単に男女の関係に進むのはおかしいだろ。あらゆる物事には順序があるからな」
私は普段の無責任な自分の生き様を棚に上げて、まるで説得力のないことを言っていると思った。
「朝から何言ってるの、変な人。あらゆる物事には・・・なんて、そんな難しい言い方しないでよ。
でも岡田さんの言うことも分かる気がするよ。じゃあ順序どおりに約束して」
「分かったよ、順序を経てからな」
この日は昼過ぎにT社から急ぎの調査依頼があった。
「律っちゃん、昨日帰ってないんだから、今日は早めに切り上げてくれてもいいよ。いつもありがとう、助かってるよ」
「私は子供じゃないんですからね、大丈夫です。行ってらっしゃい」
私は急ぎ案件の資料をもらうために、兎我野町の事務所から歩いても十数分のところにあるT社へ向かった。
ところが、途中で妻・有希子から電話がかかってきた。
ふたりの共通の知人が亡くなったとの連絡だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます