第二十三話
「何を考えているの?」
「ああ、いろいろとね」
「天満駅に着くよ」
「そうだな」
「光一、好きだよ」
そう言い残して真鈴は繋いだ手を離し、一度も振り返ることなく改札口の向こうに消えていった。
大阪環状線で新今宮駅へ、そして南海高野線に乗り換えて、真鈴は両親と暮らす泉北方面に帰って行く。
一年前の今ごろは、私の部屋の真向かいの部屋で、土砂降りの雨の下でひとりポツンと寂しく辛い日々を送っていた真鈴。
土砂降りどころではなかった、まるで暴風雨の渦の中でもがいているように思ったが、昨年暮れに父がようやく戻って来て、台風一過のそよ風と明るい日差しの下での暮らしが復活した。
本当に良かったと思う。
だが、真鈴とはこの先、いったいどうなっていくのだろう。
そして関さんとはドラマの続編があるのかどうか、それは分からない。
別居中の妻・有希子は、宮津の仕事の前に連絡したとき、あまり調子が良くないと言っていた。
有希子も癌だけではなく、おそらく他の何かとも闘っているのだろう。
暑くて長い夏がまだまだ続きそうだ。私は天満駅から離れて、手嶌さんの「明日への手紙」を口ずさみながら歩いた。
扇町公園を横切りながら、しばらくはたくさんのことをゆっくりと考えてみようと思った。
数日後、名古屋市の天白区というところにある某宗教団体の調査を一泊二日で終えて、兎我野町の居宅兼事務所に戻ったのが午後八時を過ぎていた。
その宗教団体の本部へ、興味がある風を装って飛び込んでみたが、私にはまったく意味が分からない教義と言葉だった。
エスペラント語を学びながら神の教えを知るとかなんとか言っていたが、理解に困難な内容だったから適当なところで切り上げて、資料だけもらって帰ったのだ。
私にしては珍しく、突撃取材であまり成果が出なかった。
かなり疲れを感じていたが、鞄と機材を部屋に置いて、久しぶりに安曇野に顔を出した。
すると、カウンター席の端に律子さんがいた。
「あら岡田さん、お久しぶり。岡田さんって、いつもお久しぶりって言っているような気がするのよね」
女将さんは天ぷらを揚げる菜箸をピタリと止めて、少し考えるような表情で言った。
「いえ、でもその通りですから」
私は律子さんの隣の席が空いていたので座った。
律子さんはかなり酔っている風で、壁に頭をもたれかけて眠っていた。
「女将さん、律っちゃんはよく来るんですか?」
「そうね、岡田さんところの仕事を手伝うようになってからは、週に二度くらい来てくれてるわね。でも、最近よく酔いつぶれるのよ、何かあったのかしらね」
去年、まだ温水器の会社に勤めていたころは、こんな姿は見たことがなかった。
退職後、私の事務所を手伝ってもらったことで、安曇野がすぐ近くだから頻繁に立ち寄るのは分かるが、いったいどうしたのだろう。
「岡田さん、相変わらず儲けてはりまっか?」
よく見かける印刷屋のオヤジだ。
「いえいえ、青息吐息ですよ」
「ホンマでっか、メチャ儲けてはるんとちゃいますんか?」
常連客が多い夜はかえって居心地が悪い。
表向きは冗談を吹っかけくるが、皆が私に気遣っている様子が分かるのだ。
私が街金業を営んでいたころからの常連が、今もなおこの店を贔屓にしていることが、女将さんの人柄と居心地の良さを物語っているように思えた。
でも私は、酒の数杯以上の関わりなど持ちたくないし、面倒な付き合いは真っ平御免だ。
ましてや、金貸しのころのように肩で風切って歓楽街を歩くようなことのない今は、出来るだけ少ない人と関わり合いながら、静かに調査業を営んでいきたいのだから。
「岡田さん、今度は何の商売をされているんですか?」
印刷屋の隣に座っていた、昔からこの店に来ている証券会社のサラリーマンが訊いた。
「いえ、たいしたことはしてないんですよ。調査関係ですね」
いちいち面倒だなと思いながら、私は生ビールを三分の一ほどを飲みほしてから言った。
「事務所に律っちゃんと岡田さんとふたりだけって、ホンマでっか?」
「小さな事務所で律っちゃんとふたりなんでしょう?そりゃあ心配だなあ」
印刷屋とサラリーマンふたりが同時に冗談を浴びせてきた。
店の他の客たち誰もが冗談と分かるチャラけた言い方で、奥のほうにいた常連客も「ハハハッ」と声を上げて笑っていた。
だが、すべてが冗談とも受け取れない、本心の切れ端がふたりの言葉の裏に隠れているのが私には分かった。
「何を馬鹿なことを言ってるの」と女将さんが窘めた。
そして私は「昼間はほとんど事務所にいませんからね」と、唇の端をわずかに曲げて苦笑いした。
ところが場がザワザワとほぐれていたそのとき、隣の席で文字通り泥のような酔いに沈んでいた律子さんが、いきなり首を上げて大声を出した。
「そんなの、岡田さんが私に手を出したりするわけないじゃない!あんたたち、ちょっと頭がおかしいんじゃないの?」
右手の人差し指を頭の横でクルクルと回しながら、カラスのひと鳴きのような律子さんのいきなりの言葉に、あちこちで聞こえていた話し声や笑い声が切断され、五秒間ほど音源が途絶えたように止まった。
それくらい彼女の声はインパクトが強く、まるでヤクザが啖呵を切っているようだった。
驚いて律子さんを見ると、さっきのふたりのほうを睨みつけている目は完全に据わり、その目が次第に遠くを見ているように細くなって、もうひと声叫びそうに見えた。
「律っちゃん、ワシら本気で言うてへんがな。なんも心配なんかしてへんって」
「そうそう、ジョークだよ、律っちゃん。そんな怖い顔で睨まないでくれよ」
さっきのふたりがバツの悪そうな顔で言い訳をした。
「冗談よ、律っちゃん。でもあんた、ちょっと飲みすぎよ。いい加減にしなさい」
女将さんが彼女を窘めた。
「いいのよ、もう一杯ちょうだい」
律子さんは短大生のころ「安曇野」にバイトに来ていたのがきっかけで、卒業して大阪市内の温水器会社に就職してからも、ときどき店に顔を出していた。
スタイルのよい現代っ子で、きっと男性に人気があるはずだが、いつもひとりで店に来ているおかしな子だった。
今年の四月ごろ、温水器会社を退職したと聞いたので、「少し手伝ってよ」と軽く言ったことがきっかけで私の事務所を手伝ってもらっているのだが、そろそろ失業保険の受給期間も終了するはずである。
彼女なら次の就職先は引く手数多に違いない。
真面目でしっかりした女性だけに、ずっと手伝ってほしいとは思うが無理は言えない。
「岡田さん、明日も現場ですか?」
律子さんが眠そうな目をこちらに向けて訊いた。
「いや、明日は報告書を作らないとね。事務所にいるよ」
「じゃ、律子をもう一軒連れていってください。時間、まだ早いでしょ」
「律っちゃん、そんなこと言っちゃだめでしょ。岡田さんだって疲れているんだから」
女将さんの窘めも気にせず律子さんはコップ酒をあおるように飲み、ついには私の右肩に頭を乗せて笑い出した。
「よし律っちゃん、今夜は飲もう。手伝ってもらうようになってから、一度も飲むことがなかったからな」
私は律子さんを連れて店を出た。
背後で常連客たちの「は行」のため息が聞こえたが、私は気にせず彼女の腰を抱きかかえ、中通りから東通りをぶち抜いて曽根崎通りへ歩いた。
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