第二十一話



 結局、約束の時間より一時間ほども遅れて、私は扇町公園に入った。

 真鈴は中央から少し北側の木陰で腰をおろして待っていた。


「どこに行ってたの?何も言ってくれないし、最近の岡田さんは変だよ」


「いや、仕事でね、愛媛の西条と徳島の方へ行ってたんだ。強行軍だったから、今朝帰って来てすぐに寝落ちちしてしまった、ごめんな」


「フン!事務の女性とふたりで一つの部屋にいるんでしょ、私を入れてくれないのに」


 真鈴は不機嫌な表情を崩さず、そのあと黙り込んだ。


「悪かったよ、いっぱい謝るから。それより、相談したかったことって何だったんだ?」


 この日彼女はミニスカートではなくジーンズだった。

 ミニスカートでないことに私は少し物足りなさを感じたが、そんな感情は彼女の「相談したいこと」の内容で飛んでいった。


「だから私、どうしようかなと思っているの。ハッキリと断ったほうがいいよね、岡田さん」


「また岡田って呼び方に戻ったのか?」


「あっ、ごめんなさい。どうしたらいい、光一」


「そうだな・・・その男は真鈴に何度も手紙をよこしたのか?」


「六回もらった。全部手渡しでよ。それも短い手紙じゃないの。便箋に十五枚も二十枚も書いてくるのよ。よくあんなにいろんなことを書けるわ」


「そうだな・・・」


 真鈴は少し前から、京橋駅近くにある予備校の夏季講座だけ、週に三日ほど通いはじめた。


 予備校生ではなく自宅浪人の彼女は、夏季講座くらい受けなさいと沢井氏から言われたらしい。


 それは私も前から知っていたが、その講座を受けている浪人生の中に、真鈴に好意を持っている男性が少し前からアプローチしてきたというのだった。


「そんなに言葉も交わしていないのよ。帰り道に声をかけてきて、一度目はマックでハンバーガーを食べながら、二度目はミスドでつまらない話をしただけ」


「そうか・・・」


「もっと早く光一に話をしたかったんだけど、すぐに諦めてくれると思っていたから、今まで言わなかったの」


「そうか」


「そうだな、そうかって、ちゃんと私の話を聞いてくれてるの?」


「聞いてるよ。考えているんじゃないか。ところで真鈴、ミスドってのは何なんだ?」


「ミスドはミスタードーナッツのことだよ。ミスターチルドレンはミスチルって短縮するのと同じようなものだよ。それがどうしたの?」


「それは変だな。店の名前やグループの名前は堂々としたステータスだろう。それを縮めるなんて絶対におかしい」


「そんな話をしているんじゃないよ。言い寄られてきてるんだよ、私」


「分かっているよ、それでどうしたんだ?」


「だから、私は困りますって一度受け取った手紙を返したのよ。でも彼は、急いで返事をくれなくてもいいからゆっくり考えて欲しいって言うんだよ」


 真鈴は体育座りをして膝に顔をうずめるような姿勢で言った。


 私の本当の気持は「そんな男、断れ」だ。

 でも私にそれを言える権利があるのかということだ。


 少し前、酔った眠りの中に現れた有希子が忠告してきたことがある。


「光一、私はあなたともう一度暮らしたかった。光一の意気地なし。両親のもとから私を連れ去るくらいの強引さがないと、また同じように女の人を泣かせるわよ。しっかりしなさい」


 夢の中の有希子は涙を流しながらそう言った。


 でもそんなことはできないだろう、有希子。

 自分の気持に正直になることが、本当に相手に対する誠実さになるのか?


 ビリージョエルは「オネスティ」という有名な楽曲でしきりに訴え続けていたけど、正直と誠実とは別ではないのか?


 正直に生きることが、実は誠実ではなくなることって、多々あるんじゃないのか?

 ビリー、あなたは世界的に偉大な音楽家だけど、正直と誠実とは別だと思うよ。


 私と真鈴は付き合っているわけではない。恋愛関係にあるかというと「ある」ような気がする。


 事実、私たちは会うと、ときどきキスはする。

 真鈴を腕の中に抱くこともある。

 恋愛感情はお互いにあるのは分かっている。

 でも恋愛関係にあるとは堂々と言えない。


「真鈴を誰にも渡したくない。僕たちは二十も年齢差がある。でもそれがどうしたっていうんだ。君をすごく愛しているんだ」


 自分の気持に正直になってそんなふうに本当の気持ちを伝えたとして、彼女の幸せを考えた誠実さがその言葉の中に存在するかというと、それは「違う」だ。


 そんな青臭いことを言ってはいけないのだ。


 それは関さんに対しても言える。


 彼女の幸せを考えれば、私はつながってはいけなかったのかも知れない。

 でもそのときの正直な気持のまま、私は関さんを抱いた。


 もちろん彼女もそれを望んでいた。だから私は自分の正直な気持のまま突っ走った。


 でもビリーの訴える誠実さを考えるのなら、そこで踏みとどまって、彼女の輝く未来の邪魔をしてはいけなかったのかも知れないのだ。


「ねえ、何とか言ってよ。何さっきから黙ってるんだよ。相談しているのに」


 真鈴が不服そうな顔で言った。


 最近は髪をうしろで書道の筆のように括らなくなった。

 首までの髪を少しカールして淡い茶色に染めはじめた。


 尾行に気づいて私を捕まえた、あの一年余り前の真鈴とは別人のように、本当に彼女は綺麗になった。


「真鈴の気持はどうなんだ?」


「私は特別な感情は持っていないよ。だから好きでもないし、嫌いでもない。でもすごく真面目で物静かな人なの。いつも本を読んでいるような人」


「嫌いじゃないなら、ともかく付き合ってみればいいじゃないか。付き合っているうちにもしかすれば好きになるかも知れない」


 私は本心を言わなかった。


 悪い奴ではなさそうだし、携帯電話やメールが主体になった時代に長い手紙を何通も書くなんて、きっと誠実さを持ち合わせている男なんだろう。


「それが光一の本当の気持ちなの?私がほかの男の人と付き合っても何とも思わないんだね?」


「何とも思わないことはないよ。でも人から好かれることは嬉しいじゃないか。予備校で真鈴に好意を持っている男性は、きっとたくさんいると思うよ。君はすごく頭がよくて綺麗だから」


 真鈴はしばらく黙っていた。広場の向こうの扇町プールに来ている小学生の団体をジッと眺めていた。

 でもこころは様々なことを一生懸命考えているようだった。


「ガックリ」


「えっ、何だって?」


「ガックリだよ、光一には」


「なぜ?」


「どうして私に正直な気持ちを言ってくれないの?私のこと好きだっていつも言ってくれるじゃない。

 私だってずっとずっと、もう一年も前から光一のことが大好きなのに。本当に私がその男の人と付き合ってもいいのね。それが光一の正直な気持なんだね?」


 真鈴は再び体育座りの膝の中に顔をうずめた。

 しばらくしてその顔がときどき上下に動きはじめた。


 真鈴はこの扇町公園で何度も泣いた。父捜しを私に初めて頼んできたのもこの公園だった。


「調査の費用は不要だ。君の父捜しは僕が好きですることだから」と説明しても、「それならもういい」と泣きながら帰ろうとした。

 一年前のことだった。


「もう泣くな。僕が悪かった。正直な言葉じゃなかった。でもな、君は来月ようやく二十歳になる。僕はもうすぐ四十一歳だよ。君は来年大学生になる。しかも有名なK大生だ。輝く未来が待っている。

 僕からずっと遠くへ行ってしまう。僕は相変わらずたったひとりの怪しい探偵だ。誰がどういう角度から見てもおかしいよなあ。そう思わないか?」


 しばらく私も真鈴も黙った。夏空が青色を突き抜けて水色に変わっていた。

 雲ひとつない水色空だった。


「そうは思わない。そういうのって既成概念っていうんじゃないの?そんなもの知らない。

 人を好きになるって、条件なんて関係ないよ。だって私、今の光一が大好きなんだから」


 真鈴はそう言って立ち上がり、歩き出した。私もあとに続いた。

 大通りを神山町に向かって私と真鈴は歩いた。


 ふたりの頭上には真夏の太陽が存在感を示していた。

 カンカンと性懲りもなく容赦なく突き刺し、燃えていた。「どうだ」とばかりに熱射を注ぎ込んできた。


 でも太陽がどれほどはしゃいでも、私と真鈴には通用しない。

 私たちはいつのまにか手をつなぎ、あらゆるものが何の関与もできないかのように平然と歩いた。


 ウメチカには降りずに、東急イン前の信号を渡って大融寺のほうへ歩いた。


 昨年の四月、依頼人の息子と真鈴はこの先にあるホテル・キャンディーポケットに入った。

 高校生が平日の朝からラブホテルにインしたことに私は驚き、落胆した。


「ホテルでテレビゲームをして遊んでくれるって、前に言ってただろ」


「いいよ。行こう」


 私たちは躊躇なくキャンディーポケットに入った。


 誰かが尾行していないかが気になってうしろを振り向いてみた。

 するとそこにはジーンズにグレーのTシャツを着て、コンパクトカメラの入ったショルダーバッグを引っ掛けた「私の幻影」が笑って立っているような気がした。


 その私の幻影は、私と真鈴の姿を見て「アンビリーバボー」と驚いていた。

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