第十九話
「車で穴吹まで送ってくださるんですか?」
関さんの母が心配そうに私に訊いてきた。
「もちろんです。彼女のアパートまでキチンと送り届けますからご安心下さい。
今日は時間があまりないのですが、今度ゆっくりとご挨拶に伺いたいと考えています。広美さんとは真面目なお付き合いをさせていただいています」
関さんが私を見て驚いた顔をしていた。
でも私の言葉はまんざら冗談ではない。
真剣かと問われれば、はっきり言って分からない。でもこの場の気持ちとしては本当だ。
父が正座している私に「どうぞ膝をくずして下さい。遠慮なさらんでくださいな」と気遣ってくれた。
父も母もとても穏やかそうな人柄で、関さんはこの両親のもとで経済的にも特に支障なく平穏に育ったのだろう。
私が成育した環境とはずいぶんと違うと思った。
でも彼女は今の職場で七年も働き、山篭りの暮らしの影響でこころが脆弱になっていた。
実家に戻ればリセットして再起動できるはずなのに、二年も帰っていなかったのだ。
「明日は日曜で休みだろうが?岡田さんと一緒に泊まって帰ればよかろうに」
父が私に気遣いながら、関さんに言った。
「ううん、今日は帰らんといけんの。明日はちょっと用事があるけん」
関さんは首を振って返事した。
いったい何の用事が明日あるというのだろう。
いつの間にか奥に退いていた母が、両手でダンボール箱をひとつ、重そうに抱えて戻って来た。
箱の中には米袋や野菜類や缶詰や調味料のようなものがいっぱい入っていた。
「これ、すみませんが車で運んでやってもらえませんかね?」
母親が遠慮がちに私に言った。
「分かりました。お安いご用です。間違いなく広美さんの部屋まで運びます」
そのとき関さんが「そんなの要らんのに」と言いながら、急に涙を流しはじめた。
涙はしばらく止まらなかった。
これまでの寂しさや苦しさの量と、今日実家に帰って両親と会ったことの喜びの分を加えた長さを、ときにはしゃくり上げながら、いつまでも関さんは泣き続けた。
「あんた、どうしたん?」
「泣くことなかろうが」
両親が続いて関さんに声をかけた。
泣けばいいんだと私は思った。両親の目の前でたまには泣くんだよ、関さん。
両親は君のことをいつも心配している。いつ帰っても歓迎しない親なんていない。
これを機会に辛くなったらいつでも帰ればいい。
そしてリセットするんだ。
私は関さんの涙を見ながらそう思った。
「何でもないけん。心配は要らんから」
七、八分も泣き続けてから、ようやく関さんは涙を拭いながら両親に言った。
そして「彼氏に送ってもらうから大丈夫」と付け加えた。
私は関さんの彼氏となった。
伊予西条から徳島の脇町インターまでは一時間あまりで着いた。
関さんはこんなに近くに実家があるのに、こころが邪魔をして長い間帰省しなかったのだ。
もちろんときどき電話はしていたようだが、両親の顔を二年も見なかったことが不思議だった。
でも私だって西条から車で一時間余りもあれば帰れる今治の実家に、もう何年も帰っていなかった。
見覚えのある穴吹川沿いの国道四百九十二号線を登って行った。
関さんは助手席でずっと眠っていたが、穴吹町に入ると目を開けた。
「ごめんね、今日は」
「何が?」
「彼氏にしてしまったことと、実家まで来てくれたり、穴吹まで送ってくれたこと」
「彼氏なんだから気遣う必要なんてないよ。君はもっとリラックスしないといけないよ。
仕事が大変なのはよく分かるけど、自分のほうが仕事よりずっと大切なんだ。自分を大切にするということは、両親を大切にしていることになるし、僕もホッとする。分かるかな?」
関さんは少し考えてから「分かった。そうします」と言った。
関さんのアパートは療育園から国道に出てきて、穴吹川に架かる橋を渡ったところにあった。
彼女の部屋はC棟の2階の端部屋で、敷地内にはこのような二階建の社宅が四棟建っていた。
私はダンボールを部屋に運んで、少しだけ休憩してから帰ることにした。
「泊まって帰ればいいのに。ずっと長い時間車を運転したり、うちの親に気を遣ってくれたり、岡田さん、ヘトヘトでしょ?」
「大丈夫だよ。タフでなければ探偵はできないからね。でも女子高生に捕まってしまうこともあるけど」
「えっ?」
「いや、何でもないよ。コーヒーを淹れてくれたら嬉しいな」
関さんは小さなキッチンに立ち、インスタントコーヒーを淹れてくれた。カフェオレを作ってくれないかなと思ったが、いつまでもそんな感覚を持つ私はどうかしていた。
「もう一度エッチしたかったな」
「じゃあ泊まっていけばいいじゃない」
玄関でもう一度関さんを抱きしめた。
彼女の勧めるままにもし今夜泊まってしまったら、真鈴の父がとった行動と同じことをするような気がした。
守ってやらないといけない真鈴や有希子との連絡を絶って、関さんをさらって霧島温泉へ翔けて行ってしまいそうに思った。
だから私は涙を呑んで彼女の身体を離した。
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