第十六話
「ひとりじゃつまらなくなかった?」
「ひとり旅は寂しいと思うこともあるけど、友達と一緒だと気を遣うし、相手に合わせないといけないでしょ」
関さんは私の肩に頭を乗せて言った。
「そうだね、僕もそう思うよ。誰にも気遣わず、誰とも接触を持たずに何日も過ごすことって快適だな。
もちろん広美の言うように、ときには猛烈に寂しい気持に襲われるけど、そのときの寂しさよりも、ひとりでいるときの快適さのほうが上回るんだよな」
私は彼女の言葉に同意した。
でもそう言いながら、私は関さんと過ごす快適な時間を楽しんだ。
私たちはホテルを出て河原町へ向かって歩いた。
鴨川は学生のころよく訪れた。大阪の北摂にある大学に、私は訳あって京都から通っていた。
右京区の太秦に近い天神川という用水路のような小さな川のほとりに、私が当時住んでいたアパートがあった。
映画撮影所の敷地内にある二階建てアパートで、撮影スタッフの寝泊り先としていくつかの部屋が契約されていたようだった。
私はそこから阪急電車で大学へ通い、夜は木屋町という京都の歓楽街にあったキャバレーでボーイをしていた。
愛媛の今治にある実家からの仕送りが一切無く、極貧の学生生活だったが、水商売の女性と同棲したり、バクチに一時期のめり込んだり、今思い起こすと間違いなく不良学生だった。
そのころから二十年近くが経ち、多くの苦い思い出が残る京都の街を、今私は関さんという素敵な女性と歩いていることがとても不思議だった。
「何を考えているの?」
黙ったままの私に関さんが訊いた。
私は四条大橋の上から鴨川を眺めていた。
陽がほとんど落ちようとしている京都の街は情緒的だった。
とりわけこの四条大橋からの北側の景観は、どこから眺めるよりも京都らしくて好きだ。
大阪や東京のように高層建築物がなく、北山の稜線がくっきりと見える。
京都はこの景観を維持する義務があると思った。
「学生のころをね、思い出していたんだよ。僕は京都で大学生活を過ごしたからね。貧しくて、寂しくて、惨めで、エキサイティングで、そして素敵な京都での生活だったんだ」
「複雑な大学生活だったんだ。でも京都のことはよく知っているのね」
「庭みたいなもんだな」
「フフフ」と関さんが笑った。
私たちは鴨川縁を四条大橋の袂から歩き、三条大橋をくぐってさらに歩いた。
関さんはときどき立ち止まって、「ほらあの鳥たち、とても気持良さそう」と鴨川で遊ぶ水鳥を指差したり、「あの建物、すごく京都らしくて素敵ね」と鴨川沿いの西側に並ぶ古い料亭や公共施設の建築物を見て感嘆したり、結構楽しそうだった。
いつの間にか夕陽は沈み、いつの間にか私たちは丸太町通りまで歩いていた。
「戻ろうか」と私は関さんに提案し、鴨川べりから上がって河原町通りを下った。
寺町通りにはたくさんの飲食店がある。
私たちはすき焼きで有名な「キムラ」に入った。
入口は普通の食堂風だが、入って二階に上がると意外に広い和室があり、ガス管から延びたガスコンロが置かれたテーブルが並んでいて、レトロな雰囲気がする店なのだ。
「岡田さんってこんな店も知っているのね」
「昨日は中納言の伊勢海老を食べて、今日はすき焼きだから、ちょっと贅沢続きだね」
「でも、めったにない旅行だからいいの。今日は私がご馳走する」
関さんは上機嫌だった。
すき焼きも彼女の気分に水を差すことがなく、とても美味しかった。
私たちは満足してホテルに戻った。だが、その上機嫌はいつまでも続かなかった。
彼女は部屋に入ると、私が帰ってしまうことが不安に思ったのか、急に元気がなくなってしまった。
「でも、泊まるわけにはいかないだろ」
「この部屋に私ひとりで寝ろっていうのね」
関さんは今にも泣き出しそうな表情に変わった。
私はベッドに腰をかけて彼女の肩を抱いた。「一緒にいて」と関さんが呟いた。
私はその唇を指でなぞり、そして唇を押しつけた。
「ね、岡田さん。いいでしょ?」
唇を離すと、関さんは私の目を見て言った。
訴えるような、怯えるような目だった。私は彼女の目をジッと見つめながら十秒あまり思考した。
「広美、僕は朝までいたってかまわないよ。でも、きっと我慢できなくて君を抱くよ。そうなると、もう自分の気持ちが抑えられなくなる。
僕は妻と別居中なんだけど、彼女はいま癌と闘っている。離れて暮らすことになった原因は僕にあるし、彼女は闘病している。
僕は女性を幸せにできない男なんだ。だから君とつながりをもっても幸せにはできないと思う」
関さんは私の首のあたりに顔を置いて黙っていた。
私はひとつひとつのことを真面目に考えている。
でもその真面目さが、実は相手を不幸に導いていることになっていた。
そんな馬鹿な話があるかと思うかも知れないが、事実そうなのだ。
やはり正直と誠実とは別ということが、私のような社会のはみ出し者の生き様からも証明されている。
「岡田さん、考え過ぎよ。世の中には幸せと不幸だけしかないわけじゃないわ。中間だってあるのよ、きっと。
私は今夜一緒にいてくれるだけでいいの。もちろん明日からも岡田さんと親しい関係でいられたら、仕事や暮らしに元気が出ると思うわ。
でもその先のことはどうなるか分からない。確かに不安だけど、それを今考えなくてもいいと思うの」
私は昨日からのことをずっと思い起こした。
関さんとはこうなるような気がしていた。
そしてその予感は確実に当たった。
調査業という仕事に於いて私が持つ独特の「勘」とは種類の異なる「勘」が見事に当たってしまった。
私は関さんを抱きしめた。
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