第十四話



 三十分ほど経って、ようやく関さんがバスルームから出てきた。

 身体に真っ白い大きなバスタオルを一枚巻いただけの姿だった。


 薄明かりの部屋に映える彼女の露出した部分の肌の白さに、私は目を奪われ戸惑った。


「岡田さんもシャワーを浴びませんか?今日は昼間たくさん汗をかいたでしょ」


「いえ、さっきから冷や汗ばかり背中を流れています」


「フフ、変な人ね」


 関さんはベッドに腰をかけ、バッグから四角い化粧箱を取り出し、いったん落とした化粧を再びはじめた。


 私はさっきから居心地の悪さを感じていた。

 シャワーを浴びようかとも考えたが、汗で湿った同じ服をまた身に着けるのだから意味がないと思った。


「関さん、僕は今、あなたに飛びかかろうとしている自分と必死に闘っているのですよ。分かりますか?」


「・・・・・」


「僕だって男です。あなたのような女性とホテルの部屋でふたりきりになると、どんな気持になるか分かりますか?

 しかもあなたはバスタオル一枚だ。それにとても魅力的で・・・」


「いいのよ」


「えっ?」


「岡田さん、抱いて。私・・・穴吹でずっと岡田さんのことを考えていたの。去年大阪を案内してくれたとき、とても楽しかった。

 岡田さんは私にとても紳士的だった。私はあのとき岡田さんを信用したの。

 そして穴吹に帰ってから、体を壊したり、しばらく休職したり、いろいろと疲れて、アパートに閉じこもっていたこともあったのだけど、いつも岡田さんのことを考えていたのよ。

 何度も電話しようと思ったのだけど、できなかったの」


 関さんは化粧箱をテーブルの上に置き、バスタオルを巻いたまま一気に喋った。

 

 もしかして、彼女は少し精神的に参っている状態なのかも知れない。

 うつ病とは違うだろうし、感情の起伏もそれほど激しくないが、常に相手の目を気にして気遣っているような態度は、まるで臆病なウサギみたいな感じがした。


「関さん、あなたは昨年の秋以降、何かあったのですか?春先に体調を壊したこと以外に」


 関さんは私の質問に対して下を向いて黙ったままだった。


 考えているのか、或いは嫌なことを思い起こしているのか、表情からは読み取れなかった。

 悪いことを訊いたかなと思うほど、彼女の表情にはさらに曇りが窺えた。


「あなたは少し疲れている。バーで神戸の夜景を見ながら飲みましょう。明日も明後日も、僕は一緒にいます。

 夜は帰るけど、朝にはホテルまでまた来ますから、心配ありません」


 私は関さんの隣に座った。右手で彼女のむき出しになった肩を抱いた。


 エアコンが強すぎて肌は冷たくなっていた。

 私のほうに引き寄せると、関さんは私の目を見つめた。


 唇を合わせた。真鈴以外の女性とキスをするのは久しぶりだった。

 真鈴の甘い口臭とは異なった口臭がした。

 でもそれは嫌な匂いではなかった。


 私は関さんの唇の感触にこころが昂ぶりながらも、カフェオレの香りがしなかったことが少し残念に思った。


「続きは明日、京都でね」


 私は自分を制御しないと、一気にこのベッドで関さんを貫いてしまうと思い、欲望を耐えた。


 一度垣根を破ってしまうと、もう戻れないような気がした。

 今度は関さんを連れて私が期限不明の旅に出てしまいそうな不安を感じた。


「ミスチル」の「終わりなき旅」というお気に入りの懐かしい曲があるが、そんなふうになってしまってはいけない。

 終わりがあるから旅なのだ。


「終わりなき旅」は人生そのものなのだ。

 そんな旅に出てしまったら有希子や真鈴を見守ってやれなくなる。

 だから関さんとは止まらなければならない。


「そうね、今日は暑い中たくさん歩いたし、明日もあるものね。紳士ね、岡田さんって」


 関さんは私をジッと見て、目を潤ませながら言った。

 私たちはおとなだ。求め合う環境が整っていないのに無理にセックスはしない。


「私たち、もう環境は整ってるよ」と、先日真鈴が言っていたが、本当にそうなのか、今度会ったときに確認してみようと思った。


 それから私たちはホテルの十三階のバーで飲んだ。

 まだ夜八時前だったので、バーには何組かのホテルの宿泊客がいただけだった。


 案内された席はガラス張りの窓際で、そこからすぐ目の前に昼間訪れた神戸ハーバーランドやモザイクガーデンの夜景が見えた。


 それらは多くの色彩を駆使して光り輝いていた。

 観覧車までもがイルミネーションの光を堂々と発しながら回っていた。

 私は「ダイキリ」を飲み、関さんは「ギムレット」を飲んだ。


「関さんのような妖精と過ごせて、もう思い残すことはありません。明日からの人生は付録のようなものです」


 私はチーズを口の中で溶かしながら言った。


「おかしな人ね。でも、岡田さんってどうしてそんなふうに丁寧に喋るの?さっきキスした関係なのに、おかしいわ」


 関さんは、毎回のように「フフ」と笑ってから言った。


「じゃあ、恋人みたいな呼びかたをしますよ。いいんですね」 


「かまわないわ。そのほうが嬉しい」


 でも私は関さんの名前を知らないことに気づいた。

 これまで「関さん」としか呼んでいなかったから、名前のことを意識したことがなかった。


「関さん、実は君の名前を僕は知らないんだ。多分、知世さんだと思うんだけど」


「えっ?」


「関知世さんだよね。違うかな?」


「なぜそう思うの?」


「なぜって、それはその、いつもあなたが時を翔けるように僕の元に現れるからですよ」


「岡田さんって、何を言っているのか分からないときがあるね。私は広美よ。関広美。あまり好きな名前じゃないけど」


 広美か。

 穴吹川の広大な清流のように綺麗な関さんにピッタリの名前だと私は思った。


 私はウエイターを呼んで「ダイキリ」をもう一杯注文し、関さんの「ギムレット」とナッツを追加した。


 窓の向こうには、ハーバーランドの様々な色彩の灯りが、満天の星の下で関さんの名前のように広く美しく光り輝いていた。


 私はそのあと今日一日のことを思い起こした。


 どうして関さんとキスをしたのだろう。

 なぜ彼女は私をホテルの部屋に入れたのだろう。

 ひとつひとつの流れにはきっと意味があるはずだ。


 真鈴と私と関さんとはひとつの線でつながっている。だが真鈴と関さんとは面識がない。


 関さんとつながっているのは穴吹療育園の沢井悦子だ。

 悦子は真鈴の父の姉、つまり伯母にあたる。


 そういえば沢井悦子の病状はどうなのだろう。

 私はそれが気になりはじめたが、今夜はもうそのことを関さんに訊かないでおこうと思った。


「どうしたの?急に黙り込んで」


 心配そうな表情で関さんが訊いてきた。


「今日一日の幸せを噛みしめているんだよ」と私は返事した。「フフ」と関さんは笑った。

 そしてギムレットのグラスを口に運んだ。


 私はダイキリのグラスを置いて、関さんに顔を近づけ、軽くキスをした。

「フフ」ともう一度関さんが微笑んだ。


 とても素敵な夜だった。


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