第十三話
関さんは海を眺め続けていた。
穴吹町には海がないから、旅行中はしっかりと目に焼き付けておこうとしているのだろうと私は思った。
しばらく神戸の海を眺めながらゆっくりと歩いた。
「地上に降りてきたらホッとしますか?」
冗談のつもりで私は訊いてみた。
情熱を放出し疲れて、本日の予定をほぼ終了した太陽が遠く地平線に沈みはじめていた。
とても綺麗な光景だった。
関さんはおそらく誰が見ても素敵な女性だ。
その人と肩を並べて夏の夕陽を黙って眺めている私は、もしかすればとても幸せな男なのかも知れないと思った。
「そうね・・・ホッとするけど、旅行中も職場のことが頭から離れない自分が嫌になるの。あっさり旅行を楽しめばいいのだけど、それができないのよ。
私は事務職だから、介護をする職員さんたちに比べるとそんなに大変じゃないんだけど、ときにはお風呂に入れるのを手伝ったり、緊急患者を運ぶのを手伝ったりね、いろいろするのよ。
そういう大変な職場を数日離れただけで、仕事のことが気になって旅行を楽しめないの。私がいなくったって療育園では何の影響もないんだけど、性分っていうのかしら」
「分かります、その気持ち」と私は頷いた。
関さんは「フフッ」と少し微笑んだ。
「私はいろいろ余計なことを考えすぎなのかも知れない」
関さんは自分に言い聞かせるように呟き、目の前の青い海を、目を細めて眺めていた。
「僕が穴吹療育園を訪れたとき、あのような山奥にすごく大きな施設があることに驚きましたね。本当にビックリだった。でも、あなたが広い事務室の奥から翔けるように受付にきてくれたことがもっと驚きました」
「どうして?」
「まるで山の妖精が翔けつけてくれたような気がしました」
「岡田さんって、相変わらずおかしいのね」
「でもそれは本当だよ。あなたはキーパーソンなんだから、真鈴や僕にとっては」
「えっ?」
「いえ、何でもないんです」
関さんはもう一度「ウフフ」と笑った。
少し恥ずかしそうに笑う関さんは、きっと穴吹町で一番笑顔が素敵な女性に違いないと私は思った。
夕陽が沈み、太陽は明日への休息に入った。
関さんと私はポートサイドホテルへ向かった。山の手散策はいかがですかと私は訊いてみた。
「今日は朝早くに山を出て、長い列車移動があって少し疲れたみたい。ハーバーランドはとてもよかったから、今日はこれで満足です」
関さんはそう言って、ホテルに戻ってバーで飲みたいとリクエストしてきた。
「さっき訊いたことなんだけど、本当に山を降りる感覚なんですか?ジョークで言ってるんですよね」
私は確認してみた。
でも関さんは「いえ、山を降りる感覚なの。本当に」と真面目な顔で答えるのだった。
「明日、僕はまたこちらに来ますから、異人館や神戸の高台を少し歩きませんか?」
「えっ、今日はもう帰ってしまうの?」
関さんは急に不安な表情に変わった。
「いえ、今日はまだ帰りませんよ。ホテルのバーで少し飲みましょう。それからゆっくり休んで下さい。明日は異人館などを回って、夕方には京都へ入りませんか?」
「よかった、まだ一緒にいてくれるのね。明日のお仕事は大丈夫なの?」
「仕事なんでどうでもいいんです。関さんと一緒にいるとホッとします」
関さんは「フフッ」と微笑み「岡田さんってどこまでが本心なのか分からないけど嬉しい」と言った。
僕はすべて本心です、関さん。
僕はビリージョエルの訴えに一部は共鳴する男なんです。
でも本当に「正直」と「誠実」とは同じじゃないと思うんです。
関さんはホテルに着くと、少し部屋に来ませんかと言った。
女性一人が泊まる部屋にはちょっと・・・と私は躊躇した。
でも彼女は「エレベータ前で待っていて」と言ってフロントへ鍵を取りに行った。
私は指示通りにエレベータ前で待ち、それからふたりで七階の部屋に入った。
「ホテルのバーに合った服に着替えるから」
関さんはバスルームに入ってシャワーを浴びはじめた。
私は置かれた状況にかなり混乱した。いったいどういうつもりなのだろう。
彼女がバスルームから出てきた瞬間にもし私が抱きしめたらなら、かなりの高確率で親密な関係になるに違いないと思った。
私のこれまでの数少ない女性関係で、こういったケースではほぼ男女の関係に突き進んでしまうものなのだ。
二十分近くが経過した。関さんはまだ出てこなかった。
部屋の小さな窓の白いカーテンは閉められていた。いつもの習慣でそれを開いてみた。
窓からは真っ黒な海と、そこに浮かぶ停泊船の灯りや点滅ライトが神戸港のあちこちに見えた。
窓は締め切っているので外の音は全く届かなかった。
とても穏やかな夜だった。この部屋だけが現実と区切られた異世界のようだった。
私は関さんが出てくるまで夜の神戸港を眺め続けた。
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