第十一話
有希子の実家に電話をした時刻は午後九時半過ぎだったが、応対には彼女の母が出て、有希子はすでに休んでいると言った。
「体調が悪いのでしょうか?」
「そんなことはないと思うんだけど、今日は駅前まで買い物に行ってもらったから、ちょっと疲れたのかしらね」
有希子の母はそう言った。
私は「急ぎの用ではないので、また明日あらためます」と言って電話を切った。
その夜、有希子のことが気になってなかなか眠れなかった。
自宅では寝酒なんかは飲まないのだが、ずいぶん前に買って栓を抜いていなかったバーボンウイスキーを開けてオンザロックで飲んだ。
少し眠気が襲ってきたときにスマホが震えた。
有希子からだった。
「どうしたの、電話をくれたって母から聞いたから」
「もう寝てたんじゃなかったのか?」
日付が変わって、時刻は午前零時を少し過ぎていた。
「ベッドに入っていただけよ。母から聞いたけど、急ぎじゃないからって言ったって、電話をくれたら気になるじゃない」
私は数時間前に真鈴との会話の中で、「そんな言い方したら、相談されるまでこっちとしてはずっと気になるじゃないか」と言ったことを思い出した。
有希子が言うのはもっともだ。
「いや、変な夢を見たから、体調が変わっていないか気になっただけだよ。お母さんが、今日有希子が買い物に行ってくれたって言ってたから、おそらく変わりはないんだと思うけど、どうなの?」
有希子は「う~ん」と言ってすぐには返事しなかった。
「実は、あまり良くなくてね。両親には黙っているんだけど、明日にでも病院に行こうと思っていたところなの。
前は月に一度、念のため診てもらってたんだけど、このところ二か月に一度だから、心配なのよ。疲れやすくなっているから、念のためにね」
「検査は月に一度必ず受けないと駄目だよ。手遅れにならないようにな」
「分かった」と言って有希子は電話を切った。
さっきの夢では、「私はもうあなたの手の届かないところへ行くわ。本当にサヨナラね」と有希子は言っていた。
正夢になっては困るのだ。
七月二十日、関さんが神戸にやって来た。
私は約束の午後一時より少し早めに新神戸駅に到着し、改札口近くで待った。
でも彼女はどうして再び私と会おうと思ったのだろう。
昨年の九月、彼女は山を下り谷を越え、瀬戸内海を渡り山陽道を東へ突き進み、関西へやって来た。
真鈴の父捜しの過程で立ち寄った穴吹療育園で手渡した一枚の名刺を持って、関さんは京都を観光で訪ねた帰りに私のもとに予告もなく現れた。
私は関さんの突然の来襲に驚きながらも、最も大阪らしい場所と思っている大阪の街を案内した。
通天閣からジャンジャン横丁などを回り、動物園を横に見て天王寺公園を突き抜けて戻ってきた。
それから彼女が予約していたホテルまで送って行ったあと、近くの堂山町で飲んだ。
ふたりとも酔っ払っていて、そのまま一気に深い関係に突入するかと思ったのだが、彼女はあっけなく私の前から消えた。
私はその夜、人生の辛苦を舐めながら、うなだれて部屋まで帰ったことを思い出す。
その翌日から、私は関さんのことを忘れていた。
彼女が徳島に帰ってしまった翌々月には真鈴の父が霧島温泉から六年半ぶりに帰って来て、私の事務所兼居宅のあるマンションから、もともと家族が住んでいた大阪府堺市へ引っ越してしまった。
真鈴が遠くへ行ってしまったことが私のこころに大きな寂しさを与え、冬の寒さが身体の隅々からこころの中まで染み込んできた。
その痛みのような辛さを紛らわせるために、依頼された案件はすべて請けて仕事に没頭し、東奔西走する探偵になった。
だから年が明けてからもずっと、真鈴の父捜しに最も重要な役割を果たしてくれた関さんのことを忘れていたのだ。
その関さんが再びやって来た。
彼女は改札口を出て恥ずかしそうな顔で近づいてきた。
「こんにちは。迎えに来てくれてありがとう」
関さんは水色のTシャツに濃紺のジーンズを身に着け、なぜか迷彩色のキャップをかぶっていた。
彼女のとてもラフな服装が私には意外だった。
「ともかくホテルにチェックインしておきましょう」
神戸駅からタクシーでポートサイドホテルへ向かった。
道路の渋滞もなく十数分で到着し、少し早いがチェックインを済ませた。
関さんはキャリーの付いた小さなバッグを部屋に置き、しばらくして薄茶色のとても小さなショルダーバッグを引っ掛けてフロントに出てきた。
ともかく、目の前のメリケン波止場や神戸ポートタワーなどを訪ねてみようと彼女を誘導した。
この辺りはよく知っている。
なぜなら金融会社に勤めていたころ、私がいた神戸営業所は元町の大丸百貨店の西側、南京町の入り口のビルに事務所があったからだ。
私と関さんは手をつなぐようなことはなかったが、寄り添って肩を並べて歩いていた。
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