第十話



 穴吹療育園の関さんは、午後八時以降に電話して欲しいと言っていた。

 私は午後八時を少し過ぎてから「安曇野」を出た。


 短時間に生ビールを三杯と焼酎の水割りを四杯くらい飲んだので、すっかり酔っ払ってしまった。


 女将さんが「あら、もうお帰り?」とお勘定の際に訊いてきた。


「今から生意気な少女と大人のレディと、ダブルヘッダーで囁かないといけないのです」


 店は爆笑に包まれていた。

 その爆笑を背中に、私は夏の夜の兎我野町をふらつきながら歩いた。


 真っ黒なひとつの大きな雲が、遠くに見える阪神高速道路の高架を鷲づかみにしていた。

 雲のはるか上のほうには鮮やかな月が遠慮がちに浮かんでいた。

 雲なんかよりも月のほうがもっと堂々とするべきだ。

 暗闇なんかに負けてはいけないのだ。


 部屋に戻ると案の定、留守番電話のランプが点滅していた。

 きっと真鈴からのものに違いなかった。


「何よ、さっきの言い方。聞いて欲しかったことがあるのに。私だっていろいろあるんだからね。知らないから」


 真鈴は意味不明なことをメッセージに残していた。


「私だっていろいろあるんだからね。知らないから」ってどういう意味なんだ。


 すぐに真鈴と話をしたかったが、関さんとの約束を優先した。

 部屋の中がグルグル回っているような感覚に襲われながら私は電話をかけた。


 ベッドに腰をかけて身体を安定させようとするのだが、まるで小舟に乗って宮津湾を漂っているように揺れた。

 関さんは待っていたかのようにすぐに電話に出た。


「昼間せっかく電話をもらったのにごめんなさい。近くに人が大勢いたものだから」


「いえ、気にしないで下さい。それよりまたこちらに来られるんですね」


「そう。今回はかなり開いてしまったの。前回の旅行が去年の九月だったから、もう十ヶ月も山の中から出ていないのよ。

 仕事はいつも忙しくて大変なんだけど、今年の春先は少し体調を崩して寝込んでしまったこともあったの。だからなかなか旅行に出られなくて」


「それは可哀相に。でもようやく山から下りるのですね」


「そう、山から下りるの」


「空を翔けてこちらに来て下さい。僕はいつも窓の外を眺めてあなたを待っていますから」


「ウフフフ」と関さんは笑った。


 でも彼女の声を聞いていると、こころが身体の中から浮遊して、空を翔けていってしまうような不思議な感覚になった。


 揺れ続ける部屋全体がメリーゴーランドみたいだった。

 ベッドが回転木馬のようだなと思った。


「関さん、あなたは今、カフェオレを飲んでいるんじゃないですか?」


「えっ、どうして?」


「いや、何でもないんです」


 受話器からカフェオレの甘く香ばしい匂いが漂ってきそうな気がした。

 でもそれは心地良い酔いからの錯覚だった。


「二十日は午後一時に新神戸駅に着いて、それから元町にあるホテルにチェックインするの。もし岡田さんが都合よければ大阪まで出るわ」


「いえ、新神戸駅まで僕が出向きます。どこのホテルなんですか?」


「ポートサイドホテルなの。波止場の近くにあるらしいのだけど、神戸は初めてだから少し不安だわ。岡田さんに来ていただければ嬉しいけど、お忙しくないかしら?」


「大丈夫。すべてを投げ打って駅まで迎えに行きます」


 関さんは再び「ウフフ」と電話の向こうで笑ったあと、朝少し遅めに穴吹を発って、在来線を乗り継いで岡山へ出て、そこから新幹線で一気に神戸に向かうと言った。


「ごめんなさい。またお付き合いさせてしまうことになりそうで」


 関さんは申し訳なさそうに言った。


「関さんが翔けて来てくれることを、ずっと待ちわびていたんですよ」


「相変わらず面白いことを言うのね、岡田さんって」


 関さんは昨年の九月に私のマンションを突然訪ねてきた。


 私が真鈴の父の所在を追って穴吹療育園を訪ねた際、そのときたった一度だけ関さんと会ったことがあるだけなのに、連絡もなく訪ねて来たことが不思議だった。


 でも現実に関さんは、昨年の九月下旬の雨降る土曜の昼下がり、私が用事をすませて帰宅すると、マンションのエレベータ前に佇んでいた。


 最初は誰だろうと思ったのだが、背中に一瞬だけ天使の翼が見えたから、彼女が関さんだと分かったのだ。


 天使の翼は明らかに錯覚だったとしても、真鈴の父の所在判明に最も重要な役割だった関さんが、突然私のマンションにやって来たのは事実だった。


 まるで空を翔けてきたかのように突然私の前に現われた関さん。

 私と関さんと真鈴はひとつの線上でつながっていた。

 その線上には、別居中の妻・有希子は存在しない。私と関さんと真鈴が確実に一本の線でつながっていた。


 関さんと二十日の約束を交わして電話を切ったあと、私は少しためらいながら真鈴のスマホに電話をかけた。

 時刻はすでに午後九時前だった。でも彼女は電話に出なかった。


「私だっていろいろあるんだからね。知らないから」の意味を知りたかった。

 一度そう思うと、一刻も早く真鈴の言葉の意味を確かめたかった。


 確か「相談したいことがあったのに」とも言っていた。

 何を相談したいと言うのだ。


 私は何度も電話をプッシュした。一分間に十回はかけた。でも真鈴は出なかった。

 伝言を留守番メッセージに残す気にもならなかった。

 三十回位かけても出なかったので、あきらめてベッドに仰向けに寝た。


 目を閉じるとアルコールが体内の隅々まで染み渡って、天井が高速でグルグルと回りはじめた。

 ベッドに乗ったままどこかへ飛んでいきそうな感覚になった。


 不意に誰かが私の頬を撫ぜた。目を開けてみると有希子の顔があった。なぜ有希子がベッドの横に立っているのか分からなかった。


 彼女は悲しげな表情で見おろしながら、手の甲で私の頬を撫ぜ続けていた。


「いつ入って来たんだ、有希子」


 有希子は黙ってジッと私を見つめていた。長い長い沈黙だった。

 見上げる私の目と、見おろす有希子の目がつながったままだった。


 そして一分ほどが経って、私の頬に涙の雫が落ちた。一滴・・・二滴・・・そして三滴。


「光一、私はもうあなたの手の届かないところへ行くわ。本当にサヨナラね」


 有希子は呟いた。


「どうしてサヨナラなんだ?」


 だが有希子は何も言わず、冷たい手で私の頬を撫ぜ続けるだけだった。


「どうしてサヨナラって言うんだ、有希子」


 私は急に大きな悲しみに襲われた。それは一気にやってきた。

 涙が溢れ出た。涙は私の頬に落ちてくる有希子の涙の雫と一緒に耳元に流れ落ちた。


「光一、私はあなたともう一度暮らしたかった。光一の意気地なし。両親のもとから私を連れ去るくらいの強引さがないと、また同じように女の人を泣かせるわよ。しっかりしなさい」


 有希子は泣きながら言った。私の顔はふたりの涙でびしょ濡れになった。

 こころの中も悲しみでびしょ濡れになってしまった。


「サヨナラ、大好きな光一」


 有希子はそう言って、私の唇に濡れた冷たい唇を合わせた。

 懐かしいジャスミンの香りが漂った。そして私に背中を向けた。


「有希子、ちょっと待ってくれ。どういうことなんだ?」


 私は手を伸ばし、叫ぼうとした。でもなぜか声が出なかった。


「どうして行ってしまうんだ、有希子!」と言おうとした。

 でも有希子は瞬時にいなくなってしまった。


 私は猛烈な寂しさに襲われた。大声で泣き叫びたかった。

 そのときベッド脇の電話が鳴り、私は受話器を取った。


「真鈴か、よかった」


「どうしたの?声が震えているよ」


「夢を見ていたんだ」


「お風呂に入っていたの。どうしたの、この着信。何十回もかけたの?」


 真鈴はさっき電話してきたときと違って、別に怒ってはいなかった。


「真鈴が言ったことが気になって、地球が滅ぶ前の日みたいにすごく焦ったんだ」


「変な人」


「変じゃない。私だっていろいろあるって、知らないからって、どういうことなんだ?」


「今度会ったときに相談する。今は言えないから」


「そんな言い方したら、相談されるまでこっちとしてはずっと気になるじゃないか」


「ごめんなさい。でも電話で話すことじゃないと思ったから」


「知らないからって言ってただろ。あの言葉の意味は?」


「だって、変なことしていないだろうなって、まだ私のことを完全に信じていないようなことを言うから、それがショックであんな言い方してしまったの。ごめんなさい」 


「そうか・・・それは僕が悪かった。真鈴が電話で戸惑ったような話し方をすると、どうも前のことがトラウマみたいに心配になるんだ」


「大丈夫だから、私はもう環境が整っているんだから」


「何だって?」


「ううん、いいのよ」


「相談したいことは特に急がないんだな?」


「うん、そんなに急ぐことじゃないの。だから今度ゆっくり話をしたいの。ごめんね、気にしてくれてありがとう」


「それはいいんだ。お互い様だからな」


 七月いっぱいは予備校の夏期講習が忙しくてゆっくり会えないと真鈴は言った。

 八月になれば会おうと約束して電話を切った。


 電話を切るときに「私、こころはもうおとなだよ」とポツンと言った。

「分かってるよ」と私は返事した。

 でも、そのあと本当はまだ分かっていないような気がした。


 電話を切ってから、私は自分の顔に糊がこびりついているような感触に気がついた。

 頬を触ってみると、濡れた涙が乾き始めていた。私の涙の痕なのか、有希子が落とした涙と混ざっているのかは分からなかった。


 私は夢のことが気になって有希子の実家に電話をした。

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