第九話
予定より早く出張を終えて、三日目の午後五時過ぎに兎我野町に戻った。
律子さんが帰ってしまったあとの事務所には、空虚という大きな文字が浮かんでいるような気がして、窓の外に見えるビル群もすべて灰色に見え、私のこころに虚脱感を与えるのであった。
宮津の調査の余韻がこころの中にどっかりと腰を下ろしていた。
満足のいく仕事だったが、結果的には沙織に気づかれてしまった。
でも彼女は昨夜のことを決して口外するようなことはしないだろう。
沙織はひたむきに生きている素晴らしい女性だった。
妻の有希子も真鈴も、そして徳島の関さんも、私の周りの女性たちは皆一生懸命生きていた。
私だけが気ままで怠惰に生きているような気がして、虚脱感が次第に自己嫌悪に変わっていった。
不甲斐ない自分を嘆き、瞼を押さえていると、ベッド脇の電話の留守番メッセージランプが点滅していることに気がついた。
メッセージ数は二を示していた。
「真鈴だよ、おかえりなさい。宮津からの電話、嬉しかったよ。奥さんと別居してるから寂しいのは分かるけど、私がいるんだから、元気出してね」
そこまでメッセージが残っていて、数秒の沈黙のあと電話は切れていた。
もうひとつのメッセージも女性からのものだった。
「お久しぶりです、関です。憶えてくれていますか?七月二十日の祝日から二十三日の日曜日まで関西方面を旅行します。
京都と神戸と大阪に一泊ずつする予定です。岡田さんがよければお会いしたいのですが・・・。また旅行の少し前に電話してみます」
穴吹療育園の関さんからのメッセージだった。
私はこの二件のメッセージは、よく考えてみるとつながりがあると思った。
関さんは真鈴の父の居場所が判明したキーパーソンに間違いなかった。
沢井家の菩提寺を訪ねたことから始まった父捜しは、穴吹療育園に父の姉が入院していることが判明するまで進展したのだが、訪ねてみるとそこには父・圭一の姿はなく、手がかりを得られないまま私はうなだれて大阪に帰った。
だが数日後、療育園で私を案内し、圭一の姉・悦子と面会させてくれた関さんから電話が入ったのだった。
まるで天使の翼を背中につけて、電話口まで翔けてきたかのように息を切らせながら真鈴の父の情報を教えてくれた関さん。
真鈴と関さんは、求める側と与える側とでひとつの線上にあった。
関さんが七月二十日に関西に来る。私はしばらく考えてから、着信記録の残っていた番号にかけてみた。
電話番号は穴吹療育園の受け付け番号だった。
驚いたことに、応対には関さんが出た。
「電話をくれてありがとう。しばらく京都の日本海側に出張していたものですから」
「いえ」
「今、まだ仕事中ですか?」
「そうですね。では夜八時以降に自宅へお願いします。電話番号は・・・」
私は彼女が教えてくれた電話番号を控えて、じゃあと言って電話を切った。
受話器からカフェオレの香りが漂ってきそうな気がした。
私はミルクをたっぷり入れたインスタントコーヒーを飲みながら、事務所の窓の外を眺めた。
薄汚れた壁の雑居ビルや、ガラス窓が夕焼けに光り輝いている新築の高層ビルまで、様々なビルの中ではまだ仕事中の人も多いことだろう。
その人たちは、職場での上司や同僚という人間関係が存在する。
だが、今の私にはそういった関係のものが存在しないのだと思った。
もちろんそれは今に始まったことではないのだが、なぜか今さら寂しく思うのであった。
それはおそらく、宮津での調査の内容と結果が、私に人生の切なさを感じさせたに違いなかった。
ビルの谷間に沈みゆく夕陽を眺めながら、私は真鈴のスマホに電話をかけた。午後六時を過ぎていた。
「はい」
「岡田だけど、メッセージありがとう」
「はい・・・ごめんなさい、今ちょっと話ができないの。あとでかける」
真鈴はそう言って電話を切った。どうしたのだろう、少し慌てた様子だった。
ベッドでしばらく横になって疲れを取ってから午後七時ごろに「安曇野」を覗いた。
まだ時間が早いのか、先客は常連の二人だけだった。
真鈴からは電話はかかって来なかったが、あまり彼女のことを気にすると胸が痛くなるので意識的に振り払った。
「岡田さんって、もう何年も前からうちに来てくれているのだけど、いつも久しぶりのような気がするのよね。どうしていらっしゃったの?」
生ビールを半分ほど飲んであらためて宮津の調査のことを振り返っていると、何かを思い出したような表情で女将さんが訊いてきた。
確かにそうなのだ。
私は二週間に一度程度しか顔を出さないが、途中の空白期間をいれると、もうかれこれ十年ほどこの店に通っているのだ。
女将さんが美人であることが通い続けている理由のひとつではあるが、美貌や料理の美味しさだけでなく、彼女のちょっとすっ呆けた意外性というか、天然のような性格がすごく好きなのだ。
「実は日本海側の宮津という町で、沙織という女性と飲んでいたのです」
「アハハハ、岡田さんっていつも変なことを真顔で言うから可笑しわね」
女将さんは意外に大きな声を出して笑った。
そんなに大笑いしなくてもと思ったが、説明するのが面倒なので黙った。
そのときスマホが鳴った。ようやく真鈴からの電話だった。
私は店の外に出た。
「ごめんなさい、ちょっといろいろあって電話できなかったの」
「心配したよ。まさかまた変なことしていないだろうな」
「何よ、変なことって」
「変なことって、あれだよ。その・・・」
「岡田さん、しつこいよ、本当に。お父さんも帰ってきてるんだから、変なことするわけないじゃない。
寂しいって言うから心配していたのに、まだそんなこと言うんだね。ガックリだよ。相談したいことがあったのに、私のこと、信じないならもういい!」
電話がプツンと音を立てて切れた。
私の言い方が悪かったのかも知れないが、彼女はいつも短気過ぎる。
相談したいことがあると言っていたことが気になったが、かけなおすのはやめた。
店に戻ると女将さんが「あら、どうされたの。難しい顔をして」と言った。
「少女と喧嘩してしまいました」と私は返事した。
今度は女将さんだけでなく、常連の中年の男性客ふたりも「アハハハ」と大笑いした。
笑いごとではなかった。
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