第八話
沙織は私との話の成り行きでM氏のことを思い出しているのだろうか、しばらく黙ったままだった。
私は彼女の誤ったお世辞が発端で、これまでの人生の不甲斐なさに苦虫を噛み潰していた。
おそらくふたりの沈黙が十分近くも続いた。
今夜はこのくらいにして明日もう一度来よう。
そしてもう少し突っ込んだことを訊いてみよう。
そう思ったとき店の電話が鳴った。沙織は立ち上がって電話に出た。
「ちょっと久しぶりに来られたお客さんがね・・・ハイハイ、大丈夫だって。先に寝てなさい。戸締りちゃんとしてね・・・お弁当は朝作るからね・・・ハイハイ」
電話は沙織の息子からのようだった。
「息子からなのよ。ごめんなさいね、気になさらないで。時間の方は大丈夫だから」
電話を切って再び冷酒グラスを手にして沙織は言った。
「さっき言っていた息子さんのお父さんのことだけど、神戸に家庭があるって・・・」
「そうよ、神戸にキチンとした家庭があって、私とはどうにもならないの」
「認知や養育費はもらっているの?」
私はさりげなく訊いてみた。
「子供がお父さんに会いたいと言ってきたら、そのときは彼を捜して認知してもらうかもね。
でもそんなことは戸籍上のことだし、息子が将来結婚を考える人が現れたときに、その相手のご両親が興信所かどこかを使って調べない限り分からないわよね。
だから認知なんてどうでもいいのよ。養育費も一切もらっていないけど、最初にそれなりのことをしていただいたから、感謝こそすれ恨んではいないの」
まさか疑ってはいないだろうが、沙織から「興信所」という言葉を聞いたときに、私は思わずウッとビールを喉に詰まらせて少し咳き込んでしまった。
沙織は子供から電話がかかってきたあともすぐに店じまいに取り掛かろうとはせずに、味わうように冷酒を飲み続けていた。
小さなグラスを口元に運ぶたびに、M氏との思い出のシーンを蘇らせているようだった。
古井戸の底に沈んでいた記憶を私が無理やり汲み上げてしまったのかも知れない。
「良い人だったのよね、その・・息子の父親ね。浮気心で私と関係したのじゃなくて、本当に私のことを思ってくれたの。
ちょっと照れてしまうけど、真面目に愛してくれたのよね。でも奥さんも子供さんもいたらどうにもならないじゃない?仕方がなかったのよ」
私はビールを口に運びながらどう言葉を挟んでよいものか分からず、黙って話を聞いていた。
沙織はもっと話を続けたそうだった。私も店を引き揚げ難い気持ちになっていた。
「生きていくって大変だよなあ。でも立派にお店をやっているのだから、息子さんのお父さんもきっと安心しているんじゃないかな。たまには連絡があるの?」
「それが、別れてからお互いに一切連絡を取っていないのよ。でもきっと私のことをずっと心配しているに違いないの。連絡を取りたくても我慢しているはずと私は思っているの。
だって、私の方も彼に連絡したい、少しだけでも会いたいと思ってもずっと我慢して耐えてきたんだものね。お互いが別れたあとも耐え切ることが、ふたりが決めた約束事なのよ」
沙織は遠くを見るような目で語った。
「いずれ別れることは最初から分かっていたから、彼が出向期間を終えて家族のもとに帰ることになったとき、私は妊娠していたけど彼に何も求めなかったの。最初は中絶して欲しいと言っていたけど、私が絶対に産みたいって譲らなかったの。
逆に彼は奥さんと離婚してこちらに来るとまで言ってくれたのだけど、それはルール違反だものね。ただそこまで言ってくれたことで、この恋愛は間違ってなかったと思ったの。
それでお互い一切連絡を取らないことに耐えていくことが、私たちの関係が間違っていない証なのって話し合って決めたのよ。それから十三年かな、その約束は守られているのよ」
言葉の最後のあたりで沙織は少し「フフッ」と笑いながら言った。
そこにはいわゆる「私生児」を育てている母親の陰や後ろめたさは微塵もなく、愛する人の子供と暮らしている「女」の自信のようなものが感じ取られた。
時刻は午後十一時をかなり過ぎた。
「すっかりお客さんにプライベートな話をしてしまったわね、ごめんなさい」
沙織は少しだけ赤くなった顔で謝るのだった。
「いえ、ご自身のことをこんな一見客に話をしてくれて、ほんとに嬉しいですよ。僕の滅茶苦茶な人生も披露したくなってきたけど、もう遅いからね」
「いいわよ、時間なんて。まだ十一時半じゃないの。ときどき日付が変わっても、お客さんによっては店を開けている日もあるから」
沙織も私も友達と話すような感覚になっていた。そういう気さくな雰囲気を彼女は持っていた。
おそらくこの店はそこそこ繁盛しているに違いない。
ツンと気取ったところがなく、話し上手だし訊き上手でもある。
料理も悪くないし、料金も良心的、これで繁盛しないわけがない。
「明日の夜また来るかもしれないから、そのときは嫌でなければママさんとその男性との話の続きを訊きたいものだね」
「続きはないわよ。その人とはそれっきりだから」
沙織はカウンター内に戻り、片付けをはじめながら悪戯っぽい顔で言った。
「実家はこの近く?」
「そう、この先の商店街の向こうなの」
「なぜ実家に住まないの?」
「大阪に就職していた弟が結婚して実家に帰ってきて、両親と住んでいるのよ。家は広いけど、そこに私たち親子が同居するのは、気持ちが窮屈だし気を遣うのよ」
沙織はあっさりとした口調で説明した。
沙織の現在の暮らしぶりや実家の状況、昔とおそらく変わらないだろうさっぱりした気性など、もうすでにM氏が満足するだけのレポートを書くのに十分だった。
沙織の口から、M氏への恨みに該当する言葉はひとつも出なかった。
恋愛に真面目や不真面目があるとすれば、ふたりの恋愛は極めて真面目なものだったのだろう。
沙織は相手の家庭を壊してまで愛に生きたくはなかった。
自分の幸せは、M氏の妻だけではなく、家族をも不幸にしてしまうことが分かっていたのだ。
M氏と別れる際に、お互い連絡を取り合わないことがふたりの関係が純粋だったことを証明することになると考え、ふたりはそれを約束し実行している。
恋愛が本物であるほど、その取り決めを守る苦しみはついて回る。
今日までふたりはその苦しさを乗り越え、耐えてきた。
沙織は私のような全く利害関係のない客がある日突然やってきて、プライベートな部分を語りだしたことで、自分の身の上話を披露した。
でもきっと、普段はこの宮津の常連客や一見客が来たとしても、決してM氏との関係や約束事などは語らないに違いない。
大阪から出張で店に来た一見客だから警戒心なく打ち明けたのだろう。
沙織は暗さの欠片も感じない堂々とした生き様だと私は思った。
小さな町だから、私生児を産んで育てていることが噂にもなったことだろう。
肩身の狭い思いに陥ったこともあったかもしれない。
いやおそらく、様々な苦しみや嫌な思いの繰り返しだったことだろう。
でもそれらを乗り越えたように見えるのは、M氏との愛を信じ続けている沙織の強いこころの証明なのだ。
さて、そろそろ店を退いて宿に帰ろうと思っていたところ、入り口がガラッと開いた。
そこにはジャージ姿の丸刈り少年が立っていた。
「どうしたの、あんた。先に寝ていたらいいじゃないの。すみませんお客さん、息子なんですよ」
沙織は再び私に丁寧な言葉で言った。
「こんばんは」
息子は軽く頭を下げて挨拶をしてきた。
浅黒い賢そうな顔をした少年は、中学一年生にしては立派な体格だった。
「ちょっと遅いからあと片付けを手伝おうと思って・・・」
「そんなのいいって言ってるでしょ、明日も朝レンでしょうが。帰って早く寝なさい」
息子は野球部に入っているようだった。
私はカバンからコンパクトカメラを取り出した。
「ママさん、今夜は良い酒だった。ちょっと悪いが記念に写真を撮ってくれませんか?」
「ああ、いいですよ。こんな店でも楽しんでくれたら私は嬉しいですから」
沙織は洗い物の手を休め、エプロンで手を拭きながら出てきて私のカメラを受け取った。
私はビールグラスを手に持ち、顔の辺りに掲げた。
私のポーズを沙織は慎重に撮った。
「今度は僕が撮らせて。ママさん、息子さんとそこに並んで」
息子をママさんの隣に立つように誘導して、私は一気にシャッターを押した。念のため二枚撮った。
息子はキョトンとしながらもピースサインまでしてくれた。
M氏が望んだ沙織とふたりの間の息子の写真撮影は、わずか三十秒ほどで成功した。
「ありがとう。また来ます。お元気で」
お勘定を済ませて私は店を出た。
傘を持っていなかった私に、息子は自分が持ってきていた傘を手渡すのだった。
このように礼儀正しく素直に育てあげた沙織は立派だ。
赤ん坊のころから今日まで、きっと辛く苦しいこともたくさんあっただろう。
M氏に連絡を取りたい、力を借りたい、そばにいて欲しいと何度も思ったはずである。
失って初めて相手の存在の大きさが分かったとしても、守らなければならない約束に苦しんだに違いない。
だが、沙織はM氏との約束を守り通した。関係が本物だと、交わされた約束は必ず果たされ、そしていつまでも忘れない。
M氏も同様だった。仮にM氏が沙織のことや息子のことを思わない、こころない人間だとしたら、今回のような調査を依頼してこなかっただろう。
私は静かに降り続ける小雨の中、宿に向かってゆっくり歩いた。
街はすべての家々や商店の明かりが消えてしまっていた。
ところどころに立つ街灯だけが心寂しく舗道を微かに照らしていた。
夜になると本当に寂しい街だ。
このような街でM氏と別れたあと、一人で子供を育てて商売を続けながら生きてきた沙織は凄いなと、素直に私は思った。
ところがそのとき、なぜかうしろから沙織が駆けて来た。
「お客さん、ちょっと待って」と言いながら小走りに近づいてきた。
忘れ物などないはずなのだがどうしたのだろう。
「これ、宮津名産の黒ちくわとかまぼこ。少しだけど持って帰って」
沙織は持っていたひとつの袋を私に差し出した。
「どうしてこんなものまで・・・」
「いいのよ、いろいろと話を聞いてくれてありがとう。それから、あの人によろしく言っておいてね。私はなんとか元気にやっているからって。じゃあね、ありがとう」
沙織はそう言って立ち去った。
私が礼を言う間もなく、身を翻して行ってしまった。
私は呆然と佇んだ。沙織は気づいていた。
なぜなんだ?
私のような優秀な探偵がどういうわけか感付かれてしまったようだ。
道理でいろいろと喋ってくれたわけだ。
普通、初対面の客に、あんなには次々とプライベートな事柄を話さない。
どうしてそんなことに気がつかなかったのだろう。
きっと沙織は途中から、私がM氏から頼まれて様子を見に来たと気づいたのだろう。しかし沙織さん、なぜなんです?
真鈴も沙織もいったいどうしたっていうんだ?なぜ君たちは私の目的を見破ることができたんだ?
私は沙織のうしろ姿が見えなくなるまで見届けた。
そしてそれから宿の方向へ、まるで戦い疲れた兵士のようにふらつきながら歩いた。
途中で雨は降り止んだ。
「僕も独特の勘を持っているが、沙織さん、あなたの素晴らしい勘には参りました」
私は濃紺の夜空に向かって声に出して呟いた。
二時間半ほどの接触で、私にはふたりの関係が細部まで理解できたような気がした。
この先、ふたりはおそらく連絡を取り合わず、相手の思いを抱き続けながら生きていくことだろう。
連絡を取りたい、今すぐにでも会いたい、でも必死で耐える。そういう切なさが人生にはついて回るものなのかも知れない。
翌日、宿をチェックアウトしたあと、昨夜借りた沙織の息子の傘を店の入り口にそっと立てかけ、少し名残り惜しい気持ちで宮津をあとにした。
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