第七話
和服に割烹着を羽織った沙織はかなりの美人で、四十歳の年齢よりは若くは見えなかったが、洋酒メーカーの昔のコマーシャルで囁く女優みたいだった。
私はM氏が彼女に惚れてしまった理由を、ひと目見ただけで理解できたような気がした。
「いらっしゃい、どうぞ」
沙織はおしぼりを手渡しながら、「何を飲まれます?」と訊いてきた。
私は彼女の色気に圧倒されて、頬をピシャリと叩かれた感じになってしまい、「ビールを」と返事した声が少し嗄れていたのが自分でも分かった。
一気に酔いが醒めそうだった。
「お客さんはどちらから宮津にお越しですの?」
沙織は低いカウンター越しに差し出した手の着物の袂をつかみながら、お通しと箸やすめを私の前に置き、首を傾げて訊いてきた。
「地元の人間じゃないって、すぐに分かるんですか?」
「そりゃあ、もちろん分かるわよ。水商売に長くいる女の勘ね」
沙織は「フフフ」と笑った。
自分で言うのもなんだが、私だって調査の「勘」は天性のものを持っていると自負しています。
沙織さん、貴方には負けません。
「大阪から出張なんです。観光物産会社のサラリーマン。お菓子や饅頭などの食べ物ではなくて、つまりその・・・ほら、手ぬぐいとか、暖簾とか巾着とか・・・それから観光地の名称を書いた提灯なんかもあるでしょ。そんなものを作っているんです」
「出張で営業ですか?」
「そう、売り込み」
「じゃあ、あっちこっちに出張に行かれるのね」
「北は北海道から、南は沖縄まで。これまで行ったことのない都道府県は秋田県だけ」
「秋田って有名な温泉地が多くなかったかしら」
「そうなんだけど、秋田だけは別の担当がいるから、これまでチャンスがなかったんです。秋田美人のお酌で地酒を楽しむことだけが実現していません」
私は思いつくままに喋った。
「そんなにあちこち仕事で行かれたら奥様も大変ね。月に何日くらい出張に出られるの?」
「奥さんなんていませんよ。とっくにサヨナラ」
私は有希子と別居中だが、この一年半近くひとり暮らしだ。
本当にいつかサヨナラになってしまうんじゃないかと、沙織と言葉を交わしながら気持ちが滅入りそうになった。
「じゃあ私と同じ独り身なんだ」
沙織は「独身」とは言わずに「独り身」と言った。
その言葉の響きがとても素敵に聞こえた。
何か飲むように勧めると、「ビールよりも日本酒をいただこうかしら」と沙織は言った。
「ジャンジャン飲んでください。僕も今夜は綺麗なママさんに酔うから」
「おかしな人」
私と沙織はカウンターを挟んで飲んだ。
確か沙織の店は午後十時半ごろまでだと、「魚膳」の店内係の女性が言っていたはずだ。
「もうそろそろ閉店の時間じゃないのかな?」
沙織は小さなグラスで冷酒を飲んでいた。
「いいのよ、私んちはすぐそこだから」
そう言ってカウンターの中から出てきて、外に出していた暖簾を店内に入れた。
小さな雨音が聞こえてきた。宮津の夜はいつの間にか雨になっていた。
「ご自宅はこの近くなの?」
「そう、道路を渡ってすぐ前、徒歩三十秒ね。だからいいのよ、遅くなっても」
沙織は気さくに笑いながら答えた。
「静かだね、まだこの時間なのに」
「今日はすごく暑かったけど、まだ夏の観光シーズンが本格的じゃないからね。もう少しすると海水浴客も増えてくるし、夏祭りもあるから少しは賑わうけど、宮津は年々人が減っているのよ」
沙織としんみりと人生の悲哀を語り明かしたい気持ちになるほど静かな夜だった。
「さっき『私と同じ独り身』って言っていたけど・・・」
「そう、ひとりよ。寂しいわよね、相方がいないと」
ため息をついたような表情で沙織は言った。
「ママさんのような綺麗な人が、なぜひとり?僕ならママさんのような奥さんがいたら、それこそ二十四時間寝ないで働くよ」
「本当に寝ないで働いてくれるの?」
沙織は冷酒の入ったグラスを持って中から出てきて、私が座っている席からひとつだけ間を置いて座った。
着物の襟首のあたりにドキッとするほどの色気が漂っていた。
私には真鈴という少女の「恋人?」がいるが、沙織と並んで飲んでいると、真鈴の可憐さが生意気にさえ思えてくるのだった。
それはもちろんアルコールの酔いと、沙織のおとなの魅力に惑わされそうになっているからではあったが、それほど彼女は魅力的だった。
彼女がウイスキーではなく冷酒を飲んでいるのが不思議だった。
ウイスキーグラスを持って「少し愛して、長く愛して」と沙織に言って欲しいと思った。
私はますます酔ってきた。
「息子がね、ひとりいるのよ」
少しの沈黙のあと、沙織がため息混じりに言った。
「えっ、息子さんが?でもそれじゃご主人とは・・・」
「ご主人様は最初からいないのよ」
沙織は「フフッ」と鼻で自嘲気味に笑いながら、少し投げやりな口調で言って冷酒のグラスを口に運んだ。
私は次の言葉の選択に戸惑い、ビールのグラスを何度も口に運んだ。
「昔ね、あなたのように仕事で宮津に来た人がいてね。あなたは出張だけど、その人は何年かの期間を出向でこちらに来たの。
神戸にちゃんとした家庭がある人だったのだけど、私がその男の人に惚れてしまったのよ。仕方がないわね」
沙織はいったんカウンターの中に入り、もう一本小さな冷酒の瓶を持って出てきた。
今度もウイスキーではなかった。
私は彼女に「ウイスキーは飲まないのですか?」と訊いてみた。
「なぜ?」と沙織は首を傾げた。
「少し愛して、長~く愛してって言って欲しいと思ったんですよ」
「アハハハ。面白い人ね、お客さんって」
沙織は不思議そうな顔で私をジッと見たあと、数秒間考えてから声をあげて笑った。
そんなに面白いことを言ったつもりはなかったのだが、意外に大笑いだった。
「初めてのお客さんなのに、込み入った話をしてしまってごめんなさいね。でもお客さん話がしやすいのよね。その飄々とした感じが・・・きっとお客さん女性にモテるでしょ?」
沙織は酔っているふうには見えなかったが、突然わけの分からないことを言いはじめた。
私が女性にモテるはずがないではないか。
四十歳にもなって何ひとつ構築していない私は、誰がどのような角度から見てもだめな男だ。
何かを成し遂げたという自負はこれまでだだの一度もない。
たった一ミリさえ社会に貢献したこともなく、誰かを幸せにしたこともない。
大学時代から人の世話になり続け、社会に出てからも多くの人に助けられてこれまで生きてきた、どう仕様もない男なのだ。
人に迷惑をかけて、人を悲しませ傷つけ続けているのがこれまでの私の生き様だ。
いや待てよ、ひとつだけ感謝してもらえたことがある。
それはほかでもない。昨年の初夏の暴風雨の夜に知り合った真鈴、彼女の父を捜すために真夏の熱風の中を駆けずり回り、それを成し遂げたことだろうか。
時刻はもう十一時近くになっていた。耳を澄まさないと分からないほどの静かな雨音と、エアコンが唸る音だけが聞こえていた。
ふたりとも黙ったまま、私はビールを、彼女は冷酒を飲んでいた。
この店だけがどこか遠くの小さな島に存在しているような感覚になった。
そんな沈黙の中、ふたりがカウンターにグラスを置くときの「コトリ」という音だけが、ときどき私を現実に引き戻した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます