第五話




 二日後、私は宮津へ向かった。今回は三日間程の出張となる。


だが、向かう列車の中で、わずか数日間にしても部屋を空けることを連絡する相手が存在しないことに私は気づいた。


 有希子と別居状態になってからもこのような数日の出張はたびたびあったが、今回はなぜか気持が塞いだ。


 それはおそらく、村井沙織がM氏と別れてから十数年間も断絶した暮らしを送っているということに、やり切れない思いを感じていたからに違いなかった。


 ともかく新大阪駅から有希子には一応連絡を入れておいた。


「三日間ほど京都の宮津へ仕事で行くからね。突然事務所に来てくれても僕はいないよ」


「分かったわ。ここんところあまり調子が良くないから、最近は家でゆっくりしているのよ」


 有希子は覇気のない声で言った。


 彼女の具合が勿論心配だが、今の時代、緊急の場合はいつでも連絡を取れることになっている。


 私が寂しく思うのはそういうことではなく、私の行動をひとつひとつ把握し見守ってくれる人間が、今この世の中に誰もいないということだった。


 大阪からJR山陰本線経由の北近畿タンゴ鉄道に乗った。


 列車は、京都から綾部まではほぼ一直線に北西方向へ延びる線路をひたすら走り、その後北上して午後二時ごろには宮津に着いた。


 法務局で沙織の実家の不動産登記事項を参考程度に閲覧したあと、彼女が勤めていたとされる料理店の所在を確認した。

 そのあと、少し早いがいったんビジネスホテルにチェックインし、私は真鈴のスマホに電話をかけた。

 彼女は珍しく一発で電話に出た。


「どうしたの?岡田さんから電話をくれるなんて珍しいね」


「今日から数日、京都の宮津で仕事なんだ」


「フーン、京都に宮津ってところがあったのね。どのあたりなの?」


「ほら、天橋立で有名な日本海側の町だよ」


「天橋立なら聞いたことがあるよ。観光地でしょ?それでいつ戻ってくるの?」


「もう戻らない」


「えっ、何?」


「僕の人生は宮津で終わりだ。真鈴、家族と仲良くして、来年は頑張って必ず大学に合格するんだぞ」


「何を言ってるの?どうしたの、岡田さん」


「ごめんな、真鈴。もういろいろ辛くて、生きていくことに疲れてしまったよ。嫁さんとの別居状態も何の解決策もないしね。

 だから、もういろいろ嫌になってきたんだ。日本海は綺麗な海だから、僕を優しく包み込んでくれそうだよ」


「嘘でしょ?冗談だよね」


「君はこんな僕のこと、よく慕ってくれたね。すごく感謝しているんだ」


「嫌だって、そんなの。馬鹿なこと言わないで。明日そっちへ行くから、今いる場所を教えて」


 ジョークで言っているのに真鈴はまったく乗ってこなかった。


 普段からめったに冗談やふざけたことなど口にしない私だから、彼女は本気で心配してくれたようだ。


 真鈴が焦っている様子が受話器から伝わる吐息にも感じられた。


「どうして黙ってるの。岡田さん、どうしたの?」


「ごめん、冗談なんだ。悪かった」


「えっ?」


「真鈴、ごめん。僕の話を少しだけ聞いてくれるかな?」


「冗談なの?」


「うん、ごめん」


 しばらくの沈黙があった。


「本当に死んじゃうって思ったじゃない。絶対に許さないからね」


 真鈴の半泣きの反応や言葉が、本当に死んでもよいくらい私には嬉しかった。


「悪かったよ。まさか本気にとるなんて思わなかったから」


「だめ。帰ってきたら覚悟して」


「謝るから、そんなに怒らないでくれよ。でもな、本当にちょっと落ち込んでいたんだ。

 この宮津の仕事はおそらく三日か四日で終わると思うんだけど、僕には今、留守をすることを伝えないといけない人がいないって、今更だけど思ったんだ。

 そしたら急に寂しくなってね。真鈴ならどう思ってくれるかなって試してみたんだ。ごめんな、悪かったよ」


 真鈴はまた黙った。


 電話がつながっているのか切れてしまったのかが不安に思ったころに、ようやく彼女が返事した。


「そういうときがあったら私に連絡してくれればいいじゃない。私がいるんだから、寂しく思わないで」


「この仕事から帰ったらいつものプランタンでエビフライを食べて、それから扇町公園を散歩して遊んでくれるかな?」


「いいよ」


「今日はありがとう、安心したよ」


「早く帰って来て。岡田さん、好きよ」


 真鈴は囁くように言って電話を切った。


 私はホテルの窓から見える鮮やかな橙色の夕焼けを眺めながら、「真鈴を本気で愛してしまったなら、これは本当に一大事だな」と思った。


 この日は暑さと移動の疲れがあったので、ホテルのレストランで簡単に食事をして、午後九時にはベッドに入った。


 明日の作戦を考えているとなかなか寝付けなかったが、真鈴の言葉を思い起こしているうちに気持ちが落ち着き、いつの間にか眠りに落ちた。


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