第四話


        第四話



 七月になって暑さが本格的になってきた。

 六月はゆっくりさせてもらったので、月が替わると早速T社からもA社からもオファーが次々と入ってきた。


 律子さんも旅行から帰って来たので、案件ごとの資料整理や記帳などを慌ただしく手伝ってもらった。


 神戸市内の急ぎの調査案件を終えて兎我野町の事務所に帰ったのが、午後六時をとっくに過ぎてしまっていた。

 事務を手伝ってもらっている律子さんは、まだパソコンのディスプレイを睨んでいた。


「どうしたの?もう今日はいいよ」


「そうなんですけど、今のうちに先月までの帳簿の誤差を見つけようと思って・・・」


「そんなの適当に合わせておいてくれていいんだよ。どうせきちんと申告するつもりはないんだからね」


「だめですよ、岡田さん。ちゃんと帳簿はつけて、正しい申告をしないと。キチンと申告をしないというのは・・・そういうのって脱税って言うんじゃないんですか?それはいけないと思います」


「わ、分かったよ、律ちゃん。ちゃんと申告するから、数字が合うまで調べてください」


 探偵事務所を開業後二年目、このペースだとかなりの利益が続きそうだし、来年はキチンと申告をしなければいけないだろう。


 そうすることによって、有希子との結婚生活を裂かれた実家からも、少しは信頼を取り戻せるに違いない。

 今、ふたりに出来ることは、私の仕事の安定と有希子の健康の回復しかないのだ。



 七月最初の仕事は京都府宮津市に住む親子の調査だった。

 私は調査指示書と資料をもらうため翌日T社を訪れた。


 ファックスかメールにファイルを添付してもらってもよかったのだが、依頼人の目的を直接部長から訊いておきたかったからだ。


 そんなものにいちいち立ち入らなくともよいのだが、なぜかこの案件が気になったのだ。

 理由は特になく、私の持つ「勘」だった。


 私の「勘」は自分自身が意識しないところで働くことが多い。


 昨夏も真鈴の父を捜しはじめた際、彼が経営していた会社に役員として勤めていた佐久間氏に会ったのだが、手がかりとなる話は全く得られなかった。


 だが、別れ際にその会社に当時勤めていた女子社員のことを私は訊いた。無意識に訊いただけなのだが、それが私の「勘」だった。


 結果的に、後日佐久間氏から送られてきた女子社員リストにあった三枝さんと会うことになり、彼女から沢井氏が会社経営当時に取引先のない徳島へ、なぜかたびたび立ち寄っていたことが分かった。


 その後、私は真鈴の父の実家のある香川県丸亀市を訪れて、そこからの調査の流れで徳島の「穴吹療育園」にたどり着いたのであった。


 そういえば、穴吹療育園の関さんはあれからどうしているのだろう。

 私が療育園を訪ねたとき、受付にまるで「空を翔る少女」のように駆けつけてきて、そして空を翔ぶように巨大な療育園の内部を案内してくれた関さん。


 彼女は調査が暗礁に乗り上げた感のあった私に素晴らしい情報を与えてくれたのだが、基幹の部分は私の「勘」から真鈴の父を捜し出せたのだ。



 さて、今回の依頼人M氏と被調査人・村井沙織が知り合ったのは、彼が三十代後半の頃、大手建設会社に勤務していた同氏は管理職に就き、仕事がますます面白くなってきた年齢だった。

 神戸市内に妻子との平穏な家庭を築いていたが、京都府舞鶴市の大規模なプラント建設現場へ二年間の予定で出向の命が下った。


 当時、M氏のふたりの子供はいずれも小学生、出向先が特に遠方というほどでもなかったため、彼は単身赴任を選択した。

 舞鶴から神戸まで、舞鶴自動車道から中国自動車道を経て、少し車を飛ばせば三時間程度で戻ることができる。


 赴任後も、当初はほぼ毎週末には妻子の元へ帰っていたという。

 舞鶴市内に会社が用意してくれた二DK程度のアパートに引越し、朝から夜遅くまで現場監督としてM氏は働いた。


 真面目で仕事一途の性格で、家庭も大切にするマイホーム人間であったが、仕事の疲れで週末に神戸へ帰る頻度が次第に減ってきた。

 そして単身生活にも慣れたころ、取引先から接待を受けた宮津市内の料理店で沙織と知り合った。


 宮津市は当時人口二万人あまり、現在は約一万八千人の小都市で、地場産業といえるものは特になく、天橋立や丹後由良海水浴場などの観光産業に市の収入を依存していた。


 そのころ沙織は二十五歳を過ぎたばかり、市内の高校を卒業後、地元の観光物産会社に就職、みやげ物店に勤務した。 

 両親と弟がいたが、弟はやがて大阪へ就職のため家を出た。


 沙織は両親との三人暮らしを送り、M氏と知り合う少し前に観光物産会社を辞めて、父の知人が営む料理店を手伝った。


 M氏がその料理店を初めて接待で訪れてから間もなく、沙織が土日に彼のアパートを訪れて食事や洗濯などの世話をするようになった。


 M氏は仕事の疲れもあって、神戸の家族の元へ帰るのが二週間に一度となり、やがて月に一度となっていった。

 そして一年余りが経過し、沙織が妊娠した。


 M氏には家庭があり、当然結婚はできない。

 彼は苦悩した挙句、中絶を求めたらしいが、沙織は産みたいと首を横に振った。


 二年の出向赴任期間が終わり、現場を引き払うころには沙織はすでに妊娠八ヶ月を過ぎていた。

 M氏は話し合いの末、沙織に三百万円を手渡し、神戸へ帰った。


 そしてそれ以後、たった一度たりとも沙織からM氏に連絡がない。

 M氏が部長に語った内容は以上だった。


「まあ昔の愛人が今どうしているのか?ってな内容の調査やな、岡田君。気楽に行って来てくれたらええで。宮津は魚介類が美味いよってな。カニはこの時期は食えんがな」


 部長は相変わらず気楽な調子で言った。


 調査の背景を部長から訊いて、「よくある別れた愛人の現況調査ってやつか」と私はため息をついた。


 M氏は部長に「子供が健康に育っているか、どんな子供なのか、写真を撮っていただけるものなら一枚でもいいから欲しい」と言い残して帰ったとのことだった。


 別れたあと、沙織からM氏にただの一度たりとも連絡がないということだが、逆を言えばM氏にしたって一度も沙織に連絡を取らなかったということではないか。


 何かほかに事情があるのかも知れないが、調査指示書を読んだ限りでは依頼人の身勝手な行動と、今更ながらの調査依頼としか私には思えず、あまり気乗りしなかった。


 いずれにしても、調査は沙織の現況についてだけではなく、M氏との間にできた子供の写真撮影も必要となった。


 調査発覚のおそれがあれば無理な写真撮影はやらないと依頼人に伝えているとのことだが、それをやり遂げるのがプロの調査員だから私にとっては必須事項なのだ。

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