第三話
「岡田さんから話を切りださないの?」
「それはできないな。向こうの両親が帰って来いって言って、娘を呼びもどしたんだからな。こっちに主導権はないよ」
「そんなに難しく考えなきゃいいじゃない。もとに戻りたいなら素直に奥さんに伝えればいいと思うよ」
「おかしな奴だな。前は『奥さんが羨ましい。私、岡田さんのことが好きでたまらないの』って泣きそうな声で何度も言っていたくせに、こっちからもとに戻ろうって言えってか?」
意識的に意地悪く言うと、真鈴の表情がサッと変わり、左右の頬を交互に膨らませた。
「そんなこと言うのなら私、帰るから」
やっぱりそうなる。難しい年齢の女の子なのだ。でももうすぐ彼女は二十歳になる。
「なぜ怒るんだ?毎回会うたびに奥さんのことばかり言うからだろ。世の中にはルールがあるんだ。
例えば渡世の仁義、これは任侠の世界だけじゃない。素人衆にだって当てはまるんだ。
それから武士の一言ってのもある。男たるもの黙って待つものなんだ。男にはそういう意地のようなものがあるんだよ」
私は自ら発した言葉に二、三度頷きながら、説明するような口調で言った。
「フン、変な人。任侠とか素人衆なんて、意味分かんないよ」
再び真鈴は私を非難した。説明を全く分かっていないようだった。
「そんなことより、お母さんのことは進んでいるのか?」
真鈴の母は今年の春先に、ようやく一年半ぶりに彼女の元に戻ってきた。
父が失踪後、母は真鈴のために一生懸命働いてきたが、心身力尽きて新興宗教に心の助けを求めて家を出ていた。
昨年の暮れに父が六年半ぶりに戻ってきてから、母に帰ってくるように少しずつ無理のないように働きかけ、ようやく今年の三月に家に帰ってきた。
ただ、まだ宗教団体とは完全に決別しておらず、いわゆる在家信者として休日などに教会を訪れているらしい。
「うん、大丈夫。その宗教からすぐに離れることは難しいかも知れないけど、最近は体調も良くなってきて、ときどき家事もできるようになったから」
「よかったな、家族がひとつの屋根の下で一緒に暮らすことが、人間にとって一番の幸せだと思うよ」
真鈴の父は昨年の暮れ、失踪先の鹿児島から戻ってきてから、会社を経営していたころの部下の紹介で、大阪市中央区の道修町にある小さな化学薬品会社で働きはじめた。
もともとその業界が長い父は、すぐに昔の知識や経験を呼び戻し、今では営業の軸として手腕を振るっているとのことだった。
そして母に対しては信仰を無理に辞めろとは言わず、もつれた紐をゆっくりと解くように、もとの状態に引き戻していた。
思えば昨年六月に真鈴が私を捕まえたことは、彼女の父捜しのオープニングだったのだ。
「あんたの言い分は聞かない。真鈴のもとに帰ってやってくれ。娘さんがピンチなんだ。それに寂しくて死にそうだ」
感情を抑えられずに沢井氏に強く迫ったあのとき、私の脳裏には、寂しさを詰め込んできた段ボール箱の山積みが、今にも崩れ落ちてしまいそうな状態の真鈴の姿があった。
私は有無を言わさない態度で臨み、沢井氏を彼女の元に帰らせた。
沢井氏が私の目の前で五分あまりも泣き続けていた光景が、ついこの前のことのような気がする。
一年は早い。私の周りは変化し続けていた。真鈴も彼女の家族も変化している。
妻・有希子は癌の転移に怯えながらも、ネガティブな感情を持たないように努めているようだ。
世の中や人々は日々変化していく。平穏や安定なんていう言葉がこの世の中に存在する意味がどこにあるのだろうと、私はときどき疑問に思うことがある。
変化することはありきたりなことだ。変化しないこと、平穏なことが、もはやイレギュラーな時代なのだ。
「真鈴、ちょうどよかった。梅田まで少し付き合ってくれないか」
「いいけど、どうしたの?」
「うん、買いたいCDがあるんだ」
「去年、手嶌さんの明日への手紙を買ったね。懐かしいな」
昨年の八月、手嶌さんの「明日への手紙」が収められたCDを買うために、真鈴に梅田のヘップファイブまで付き合ってもらった。
梅田地下街からヘップファイブへ上がるエスカレータで、不意に真鈴が私にキスをしてきた。
「父を見つけてくれたお礼の一部よ」
突然のイレギュラーな行為に私は驚いて、エスカレータを上がったところで危うく転びそうになってしまった。
あれからもうすぐ一年になる。
「今度は何を買うの?CDショップなんかに行かなくてもアプリから買えるんだよ」
真鈴は馬鹿にするように言った。
「うるさいなぁ、お店で買いたいんだよ。タイトルは瑠璃色の地球っていうんだ」
「すごく綺麗な曲だよ。私のスマホのアプリに入ってるよ。スマホから支払ってダウンロードすればいいだけなのに」
「いや、お店でちゃんと形のあるものを買いたいんだよ」
「岡田さん、そんなこと言ってたら時代に遅れるよ」
「うるさいなぁ、ショップまでついてきてくれるのか、それとも嫌なのか?」
「私の言うことを聞かないんだから、ホントに」
真鈴は呆れた顔で言った。
でも何でもかんでもアプリとかダウンロードとか、私はどうもそういうのが苦手なのだ。
私たちは扇町公園を出て通りを西へ歩き、東急インの前を通って曽根崎東からウメチカに降りた。
いつの間にか真鈴の左手は私の右手を取っていた。
大学浪人生の真鈴と四十歳の怪しい中年男。片や、来年は大学生となって輝かしい未来が待っている可憐な少女。
片や、妻の実家から愛想を尽かされて別居中の冴えない探偵。
「様々な分野で生きる百人の常識人に訊きました」という番組があったとしたら、私と真鈴との関係は、全員が「有り得ない」「イレギュラーだ」「アンビリーバボー」と答えるに違いない。
「またさっきから黙ったままだね。今日は岡田さんおかしいよ」
「いろいろと考え事をしていたんだ。それにしても真鈴、ずいぶんと綺麗になったな。本当に見とれるよ」
「何?」
「だからな、会うたびに綺麗になって、驚かされるって言ってるんだよ」
私は褒めたつもりだったが、真鈴はなぜだか分からないが「馬鹿」と小さく叫んで握られていた手を解いて先を歩いた。
いったい何を怒っているのか分からなかった。
泉の広場からタワーレコード梅田大阪マルビル店まで、地下街を十数分歩いた。
その間、私は真鈴に追いつけなかった。彼女は歩く速度を落とさず、後ろを振り返りもしなかった。そして巨大なタワーレコードの店舗前まで来て、ようやく足を止めて振り返った。
「岡田さん、私のこと本当に綺麗になったと思った?」
「えっ?あっ、いや本当だ。すごく・・・君は綺麗になった」
「今度から待ち合わせ場所で会ったとき、最初に言ってよ。会って二時間以上も経ってから言ってくれても、そんなの嘘に聞こえるよ」
「分かった、今度から気をつけるよ」
私たちは手をつないで店に入った。
真鈴とは前のようにたびたびは会わなくなったし、電話も父が戻る前のように三日を置かずにかけてくるようなことはなくなった。
そういう距離を私は最初少し寂しく思ったが、今では程良い距離だと感じるようになっていた。
真鈴とはそういう関係が続いていた。
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