第二話
二
真鈴は午後一時を少し過ぎたころに、天満駅改札口周辺を蹴散らすような勢いで出てきた。
改札口前で待ち合わせると、毎回「私を通しなさい」とでも言いそうな不機嫌そうな表情で現れる。
この日も不機嫌な感情を顔だけでなく、身体全体に表現しながら私に向かってきた。
首を覆う程度までに伸びた髪が少しカールされ、浪人生になってから会うたびにおとなの雰囲気が漂ってきた気がするが、それが少し生意気にも思えるのであった。
「やあ、久しぶりだな。お昼はまだだろ?」
私はいつもと変わらず言った。だが真鈴は私の声かけを無視して先を歩いた。
機嫌の悪さが小さく揺れる彼女の背中全体に表れていた。
「どうしたんだ、何かあったのか?」
商店街を突き進んで行く真鈴に追いつき、肩を並べてから私は訊いた。
「何もないよ。岡田さんに呆れているの」
「なぜ?」
「会ったらいつも最初にお腹のことばかり訊くじゃない。何か食べようか、お腹は空いていないかって、そんなことばかり最初に言うよね。
レディに対して失礼だよ。少しは可愛くなったねとか、髪形が変わったねとか、そういう気の利いたことが言えないの?」
「でも、ちょうど今お昼どきだろう。お腹の具合を訊くのが当たり前じゃないのか?」
「馬鹿みたいだよ、そんなの。いつまでも私を子ども扱いしないでね。もうすぐ二十歳なんだからね」
そうだった。真鈴はもうすぐ二十歳だ。
昨年の八月九日、彼女の誕生日に鹿児島の霧島温泉にいた父から六年以上の空白を経て電話があり、彼女はそれを私に報告して電話口で号泣した。
あれからもうすぐ一年だ。
「そうだな、悪かったよ。ところで、久しぶりにプランタンにでも行こうか?」
「うん、行こう」
ようやく表情を少女のように崩して真鈴は頷いた。
プランタンはずっと変わらず昔ながらの純喫茶スタイルを貫き続けている立派な店で、オーナーの伊藤氏の人柄はともかくとして、ここのエビフライは抜群の味なのだ。
「ようこそ岡田ハン、これまたお久しぶりですな。どないしてはりましたんや?」
伊藤氏は相変わらずのコテコテの大阪弁で話しかけてきた。
「ちょっと仕事が立て込んでいましたからね。二、三週間、目が回りそうなくらい忙しかったんですよ」
「今日は別嬪さんのお嬢さんとランチに来てくれましたんやな。おおきに」
「伊藤さん、前にも言いましたよね。私には子供はいません。彼女は娘じゃありませんよ。ともかくいつものエビフライ定食を二つ頼みます。飲み物はアイスカフェオレで」
「そうでっか」
彼は少し不服そうな顔をして厨房のほうへ退いた。
「悪い人じゃないんだけどね。品がない」
私は真鈴に詫びる気持を含めて言った。
「大丈夫、もう慣れたから」と彼女は笑った。
私たちは食事の間、あまり言葉を交わさなかった。
もちろん、エビフライが抜群の味ということもあったが、真鈴が急に会いたいと言ってきたからには何か悩みがあるのだろうと、彼女から話を切り出すのを待っていたのだ。
だが会話は真鈴の受験勉強のはかどり具合と私の妻の病状程度で、食後のアイスカフェオレを飲んだあとはすぐに店を出た。
伊藤氏がレジで「今日は雨が降るかも知れまへんから、室内の静かな場所がよろしいな」と、全く意味不明なことを言った。
彼は良い人なのだが、ひと言多いのが玉に瑕なのだ。
店を出ると、伊藤氏の予測は全く当たらず、商店街のアーケードを抜けると陽が射してきていた。
空を見上げると、青空が雲を追い込み、雲が必死で逃げているようだった。
私と真鈴は扇町公園に入り、中央の広場を越えたところの芝生に腰をおろした。
「真鈴とここに来るのは何ヶ月ぶりかな」
「桜が咲いているころに来たよね。だから・・・二ヶ月と少し経っているかな」
「月日が経つのは早いなあ。去年の今頃はお父さんの居所を捜しはじめたころだったな」
「そうね。本当に一年ってあっという間だね」
扇町公園に入ると街の喧騒が嘘のような感覚になる。
公園には平和が満ちあふれていないといけないという使命がある。
でも公園を訪れる人々は幸せな人々ばかりではない。
様々なことに迷い苦しんでいる人や、生きるべきか死ぬべきかで悩んでいる人も訪れる。
そして枝振りの良い木にロープをかけて本当に死んでしまう人もいるのだ。
「岡田さん、今日はあまり喋らないのね」
公園を見回しながらそんなことを思っていると、真鈴が芝生をちぎりながら呟いた。
淡い陽射しを浴びた真鈴の姿は眩しく、グレーと濃い緑のタータンチェックのミニスカートから覗く健康的な太ももは私をドギマギさせた。
「そんなことはないよ。ところで真鈴、これまで何度も注意しているはずだが、僕と会うときはそういうミニスカートはやめなさい」
「えっ、何?どうしてそんなことにこだわるのかなあ。おかしいよ、岡田さん。今の若い女の子なんか、こんなところまでの短いスカートを履いてるよ」
そう言って彼女は体育座りのスカートを太ももの付け根まで引き上げた。
この光景を公園内の人々が見たらどう思うだろうと、私は少し慌てた。
「岡田さんって、本当に変な人ね」
真鈴はため息混じりに付け加えた。
でもこんな四十歳の怪しい探偵と友達みたいな感覚で会う君だって変だろうと私は思ったが、それを口には出さなかった。
必要最小限の社会との関わりを心がけている私にとって、彼女はこころのカンフル剤のような友人なのだから。
「ところで今日は何か相談があったのか?」
「えっ、どうして?」
「いや、真鈴が急に会いたいって言ってきたから、どうしたのかなと思っただけだよ」
「何もないよ。岡田さんに少し会いたかっただけ。そんな理由で電話しちゃだめなの?」
「もちろんいつ電話してきてもかまわないよ。真鈴とは戦友だからな」
不満そうな顔つきの真鈴に私は答えた。「変な人」と彼女は呟いた。
お互い様だろ思ったが、もう一度だけ口に出すのは控えた。
「奥さんとどうするの?ずっと別居したままでいいの?」
しばらく黙ったあと、真鈴は言いにくそうに訊いてきた。
真鈴は私と会うと必ず「奥さんとどうするの?」と訊く。
「手術のあと、あまり具合が良くないようだからなぁ。どうするか分からないな」
さっきまで必死に逃げていた雲がすっかり消え失せ、目の覚めるような青空に変わっていた。
その鮮やかな青空を見上げながら、私はまるで他人事のように言った。
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