続・暴風雨ガール
藤井弘司
第一話
昨年の春に岡田探偵調査事務所をオープンしてから、予想に反して息つく暇もほとんどなく東奔西走していると、あっという間に一年が経とうとしていた。
別居中の妻の有希子との関係も停滞したままというよりも、同居生活に戻る気配もない反面、義父母から離婚の話が出ることもなくなった。
それは私の仕事が多忙だったため、有希子とじっくり話をする機会を持てなかったことや、彼女の乳癌の切除手術後の経過が一進一退という状況であったこともあり、義父母も娘を気遣って離婚の話には触れなかったからであった。
一方で、探偵のノウハウを教えてもらったT社からの調査案件はひっきりなしに入ってきた。
さらに京都のA社からも度々オファーをもらうのだが、ひとりで飛び回るには限界があり、やむなく断ってしまうことが申し訳なく思うのであった。
ただ、四月からひとりの女性に私が留守中の電話番と雑務を手伝ってもらっていて、T社やA社からの問い合わせや新たな依頼案件などを、現場で奔走している私に連絡してくれるのでずいぶんと助かっていた。
その助っ人である律子さんは二十四歳、安曇野という私の行きつけの小料理屋の常連客のひとりであった。
何度か世間話などを交わしているうちに、目下のところ仕事を辞めて失業保険をもらっているところだと言うので、次の仕事が決まるまでの期間、午前十時から午後四時までの時間帯だけ、アルバイトで手伝ってもらっている。
そしてあの沢井真鈴は、六年半ほども失踪していた父が昨年の暮れに帰って来てから、家族がもともと住んでいた大阪府堺市の公団に引っ越した。
連絡は度々もらうのだが、妻の有希子と会う機会を持てないのと同様に私の仕事が忙しいこともあって、めったに会うことがなくなってしまった。
季節は再び六月の鬱陶しい梅雨、ここ数か月は息つく暇もなかったのだが、急ぎの案件が片付いて、ようやく時間と気持ちにも少しだけ余裕ができた。
律子さんは数日国内旅行に出かけるとのことで今朝は事務所にひとり、窓から見える兎我野町のビル群の上を灰色の厚い雲が覆っていた。
ぼんやりとその雲の動きを眺めていたらスマホが震えた。電話は沢井真鈴からであった。
「はい、岡田です」
「今何しているの?」
ほぼ一ヶ月ぶりの電話である。
「ああ君か、今さっき起きたところだよ」
私は彼女の質問に的確に答えたつもりだった。午前十時。
「ああ君かって何よ。失礼ね」
「あっ、あなた様でしたか。お久しぶりです。いかがされましたか?」
「・・・からかっているのね、もういい!」
ブチッと音まで聞こえるほどの勢いで電話が切れた。
相変わらず彼女は気が短すぎる。ちょっと悪かったかなと思って私はすぐに電話をかけた。
「悪かったよ。でもそんなに怒ることないだろ。ユーモアだったのに」
「・・・・・」
「悪かったよ。謝るから」
「もう十時を過ぎてるよ。相変わらずだらしないね」
「そんなことはないよ。日本の政治を憂いていたところだ」
「・・・・・馬鹿みたい」
「受験勉強、頑張っているんだろうな」
「当たり前じゃない。岡田さんみたいにダラダラしていないから」
昨年の夏、私は真鈴の父捜しに四国から九州を奔走していた。
本来の仕事を放り出して彼女の父の居所を捜し続けていたころ、「岡田さん、どうして私にそんなに親切にしてくれるの?」としおらしい声で彼女は何度も問いかけてきた。
私はその質問に対して「僕のような優秀な探偵が初めて捕まったのが真鈴だからだ」と答えた。それは本当の気持だった。
私のようなベテラン探偵の尾行に気づいた真鈴。
私の腕をきつく掴み、京阪電鉄京橋駅の駅長室へ引っ張っていった真鈴。
目に涙をいっぱい溜めて「誰に尾行を頼まれたのですか?」「もしかして私の父の依頼ですか?」と睨みながら何度も詰め寄ってきた真鈴。
「君の尾行を頼まれたのではない。依頼人の息子の動きを追っていたら君と接触したからなんだ」と答えると、ガックリと肩を落とした真鈴。
あのころと違って、彼女は私に遠慮のない話し方になっていた。
それを親しさのバロメータと考えるのなら決して悪くはない変化なのだが、若干の戸惑いを感じているのが正直なところだった。
昨年の暮れ、真鈴のもとに父が戻って来てからは、私が仕事に追われていたということもあったが、意識的に少し距離を置いていたのだ。
父の所在捜しに奔走する私を彼女は次第に信頼し、そしてそれが私への愛情に変わりつつあったことは、調査の進捗を報告する過程で何度も会っているうちに感じていた。
でも私はそろそろ中年にさしかかる怪しい探偵だし、妻とは一年以上も別居中にもかかわらず、何の状況変化も結論も出せていない軟弱な男である。
だが真鈴と何度も会っているうちに、有希子への愛情とは種類の異なった気持ちが私のこころに生まれていた。
一度だけ真鈴が私の部屋に来たとき、男女関係に突入しかけたことがあったが、そのときは寸前のところで自分を抑えた。
それ以後も何度か会っているうちに、気を緩めると危うく一線を突き破ってしまう場面もあったが、辛うじて踏みとどまっていたのだ。
それは、一度塞き止めが崩れると一気に走ってしまって、二度と戻れなくなることが、私にはよく分かっていたからだった。
「少しでもいいの。今日会いたい」
「受験勉強に影響はないのか?」
「岡田さん、しつこい。少しくらい息抜きが必要なの」
いきなりの電話と気だるそうな口調。こういうときの真鈴は絶対にあとには引かない。
一年あまりの付き合いで、私はいつの間にか彼女の性格の隅々まで熟知しているような気がした。
「分かった。どこに行けばいいかな?」
私たちは午後一時に大阪環状線天満駅の改札口前で会うことにした。
外は今にも雨が降りそうな鬱陶しい空模様だった。
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