第10話 山陽道

 誰が見ても武家の夫婦の二人旅だと思うだろう。吉十郎と小春は、行李こうりを背に連れ添って山陽道を上っていた。吉十郎は六部僧から芸州広島藩士、山辺健吾やまべけんごとなり、小春はその妻ゆきとなっていた。堀伝三が用意してくれた通行手形がそのようになっていたからだ。

 小春は、下駄屋の夫婦や乾物問屋の主人、番頭、手代たちには、母親が病になり看病のため国に帰るという事にしたらしい。

「しばらくは帰れない、もしかすればもう帰れないかもしれないと申しますと、皆、たいそう名残惜しんで下さいまして、餞別せんべつまで頂戴し、心苦しゅうございました」

「餞別まで…、遠慮せなんだのか?」

「いえ、頂けるものは頂いておく性分でございまして」

 小春は、そう言うと、いたずら小僧の様な顔で笑った。

 吉十郎はその顔を見て、素直に、愛おしいと思った。そして、この女とは相性が良さそうな気がする。亡くなった妻とは仲は良かったが、相性が良いとは言えなかった。つまらぬ冗談やしもの話をろうものなら、すぐに機嫌を悪くするような女で、夫婦間の会話を楽しむという事はなかった。その点、この小春は、何か一言振ひとことふれば,すぐに気の利いた数言すうことが返って来て楽しませてくれる。


「だが、それにしても何で乾物の行商なのだ?」

 旅の道すがら小春に問うた。

「乾物問屋が隠密宿おんみつやどですので」

 小春はさらりと答えた。

「小春殿が見破ったのか?」

「いえ、掘様が、代官をされている時に」

 伝三は、隣の福山藩との国境が町の中にある尾道の代官をしていた時、すでに乾物問屋が隠密宿であることを見破っていた。だか、表沙汰にすることはなく、そのまま放っておいて出入りする公儀の間者を監視していたそうだ。小春は、行商人として乾物問屋に入り込み、さらには斜向はすむかえの二階を間借りしていたので、手に取るように出入りする隠密達の動向が分かったと言う。


「旦那様もおごう様(奥さん)もええ人なんですよ」

 小春は、乾物問屋の夫婦にはよくしてもらったらしい。それだけに、好意を裏切っているようで心重こころおもたかったと言った。また、隠密宿だという事は旦那様しか知らず、家族も奉公人も誰も知らないようだとも言った。おそらく、一子相伝で隠密宿のことは伝えられているのであろう。

 乾物問屋は慶長けいちょうの頃にすでにこの尾道で商いを始めていたらしい。慶長と言うと徳川と毛利が豊臣後の覇権はけんをめぐって主導権争いをしていた頃である。すでにその当時、徳川は当時の毛利の最深部にまで拠点を置きその情報網を広げていたのか、そして、伝三に見破られるまで百年以上も極秘の諜報拠点であったのかと思うと感慨深いものがあった。だが、一度見破られてしまうと、今度は反対に諜報活動の一番大きな障害になってしまうのだと思うと、なにやら可笑しくもある。


「して、公儀隠密と分かったらどうするんじゃ。殺してしまうんか?」

「そんなことはいたしません。分からぬように見張るのでございます。大概は、長州の方へ参られます。同じ外様とは言え、御公儀には、浅野様と毛利様はその扱いが違うようでございます」

 小春も分かっているのであろう。幕府が薩摩の次に警戒しているのが長州であることは知らぬ者はいない。この時より百五十年後、幕府の不安は的中することになるのだが、この二人にはそんな先の事は分かる訳はない。


「芸州の中を探索し始めたらどうするんじゃ?」

「子供を使ってふみを渡しまする。『知られておりまする。速やかにお引き取り願いまする』と書いた文です。皆さん慌てて来た道を帰られまする。その姿、面白うて…」

 そう言うと、口に手を当ててくすくす笑う。

「では、人をあやめたことはないのか?」

 吉十郎は問うてみた。

「そんな恐ろしいことはできませぬ。吉十郎様は人をあやめたことはあるので?」

 小春がおそるおそる訊く。

「ある」

 短く答えた。小春の顔色が一瞬曇った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る