第4話 伊予大三島を出立

 船は来島海峡を渡り、今治のすぐ沖の伊予大島、下見の港に着いた。その名が表すように、下見吉十郎の先祖が支配した土地である。今は本家の血筋も絶え、ここ伊予大島で下見を名乗る者は誰もいない。

 船頭は荷役を差配しながら大量の荷駄を降ろしている。荷駄のほとんどが米、芋、豆、味噌などの食料である。去年の夏の日照りで島嶼部とうしょぶは不作に見舞われ、収穫は七割も無かった。これらの食料は今治藩からの義援として贈られているものなのだ。冬場を越して島の住民には食料が途絶えてしまっており、麦の収穫まであとひと月はこの義援の食料に頼ることになる。島嶼部は河川が少なく、またその水量もしれているので少し日照りが続いただけですぐに不作になってしまうのだ。

 日照りが長く続くとそれは凶作をもたらす。この芸予諸島では凶作はすなわち飢饉ききんを意味することになる。人口が他の瀬戸内の島々と比べて多すぎるのだ。これより百年ほど前は、この辺りは村上水軍の根拠地であった。水軍というと聞こえはよいが、要するに海賊である。多額の水先案内料を要求し、断れば、即、海賊行為を働くと言う集団で、それがこの辺りの基幹産業とも言えた。海賊行為から挙がる巨万の富は島を潤し人も溢れた。だが、江戸時代になって水軍は解体され海賊行為は禁止される。海賊と言う基幹産業を失った芸予諸島は、人口を支えきれなくなり、流出する人口も多かったが、やはり、百年経ったこの時代でも島の規模に対してその人口は多すぎた。

 吉十郎は荷駄が降ろされる様子を見ながら、

「やはり、甘藷とやらを盗んでこんといかんかのう」

 一人つぶやくと立ち上がり、気合を入れるかのように背を伸ばすと、潮風を思い切り吸い込み、そして吐いた。


昨夜、家老の服部伊織に聞いたのだが、甘藷は20年ほど前に家老の江島為信えじまためのぶが日向の国から送らしたと云う。江島為信は浪人であったが、その博学ゆえに先々代せんせんだいが日向から迎えたのだ。江島は、雨の少ないこの地には甘藷が良いと思い日向から送らしたのだ。だが、栽培方法が分からず、二度も失敗して百姓たちも途方に暮れた。そして、江島の急死で甘藷の栽培は終わった。

 服部伊織は、定基から甘藷の事を知り、その当時に甘藷栽培をやったことのある百姓から訊いたのだが、20年前となるとほとんど覚えていない。色もあやふやで、形も丸い云う者も細いと云う者もいる。それに、何度やっても芋が腐ってしまい、ほとほと困ったと云う。


 正徳元年六月、吉十郎は六部僧ろくぶそうのいでたちをして家を出た。まだ薄暗いうちに人知れず島を離れ、小さな帆掛け舟を操り島伝いに丸一日かけて尾道まで渡った。六部僧とは、自ら書き写した法華経を諸国の六十六箇所の霊場に収めるために全国を巡る僧のことを言う。薩摩は他国者に厳しく、なかなか入国することができないと訊いている。全国を巡る六部僧の姿をすれば怪しまれないかと考えたのだ。

 翌日、尾道の代官所に向かった。そこには、かねて家臣として同じく服部屋敷に仕えた坪内伝三つぼうちでんぞうが代官としているはずだった。だが、代官所の役人に訊けば一年ほど前に御山奉行として藩庁に栄転になったという。吉十郎は迷うことなく伝三の居る広島城下に足を運び始めた。

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