42 乳白色の男


 同じ頃、綾杜は雫の垂れる桃色の髪と身体をぬぐっていた。薄く曇った浴室の鏡には、しなやかな体躯たいくが映っている。ほど良く厚みのある胸下には、「空白狐くうびゃっこ」、と銀字が印されていた。

 適当に髪を乾かし洗面所を後にしては、冷蔵庫から飲みかけのミネラルウォータを取り出す。冷蔵庫の中には、作り置きの御菜おかずがきれいに仕舞われていた。どうやら家事はこまめに行うらしい。

 二口ほど飲んでから、今度は冷凍庫を開けた。定番のカップアイスから箱アイスまで豊富に常備されている。チョコバーへ手が伸びるも、既に歯を磨いていたことをおもい出す。一つため息をこぼしては、残っていた水を体内に流し込んだ。寝室に入り、ロングサイズのベッドへ身を預ける。真上に浮かぶまるい天窓から、射し込む月光を茫然ぼんやりと見上げた。――月を見ると決まって憶い出す。月に似たうつくしいその眸を――。綾杜はそっと睫毛を伏せた。忘れもしないあの日に、時が戻っていく。


∞ ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ∞


「テ、テレビ……!? ええ、メイク直した後で良かったあ。――え、今日ですか? 今日は昨日よりかはましですねえ。からっとした暑さだから、メイクよれよれのお化けになってないし。ていうかこれって、全国に流れるやつですか? もうちょっとお洒落してくればよかったあ」

「もぅ、みーちゃんてば気にし過ぎぃ。そう言えばあれ、なんて言うんでしたっけぇ。記録的モウソ……?」

「ちょっとばかあ、お腹痛んだけど……! それを言うなら猛暑でしょ、ってやばすぎ」


 八月中旬。適当にけていたワイドショーの街頭インタビューが聞こえてくる。今週の都心の気温は、先週に比べ暑さが和らぎ、熱中症で運ばれる患者も減ったそうだ。それを見聞きした少年が、ふ、とつり眼に笑みをこぼす。

 硝子窓を開けた網戸の向こうでは、夕陽色に染まったせみしきりに鳴いていた。ふるっとふるえるはねの振動も、たまに聞こえる。

 少年が居る一階のダイニングテーブルには漢字ドリルや計算ドリル、一行日記と書かれたプリントの束が無造作に並んでいた。桃色の短髪を扇風機に靡かせている少年が、チョコ味のアイスバーを美味しそう頬張っている。それは少年にとって、和菓子の次に好きな甘味スイーツであった。

 ふと、鳴り始めた固定電話の音に眉を顰めては、煩わしそうにつり眼を流す。何回かのコール音が続いてから食べ終えると、ようやく受話器を持ち上げた。


「おそいよ、綾杜のばか!」

「あ? そんな生意気言うなら切るぞ」

「やだ! うそだから切らないで!」

「うるせえな。わかったから大声出すなあほう」

 甲高い声で喋る麻子に、堪らず受話器を遠ざける。無造作に髪をいじった綾杜は、何かを憶い出した様子で続けて言った。

 

「そういやお前、初めてできた友達の家にこの間泊まったんだろ? お前ずっと楽しみにしてたもんな」そう言うと、麻子は急に押し黙った。つい先刻さっきまで騒がしい声を上げてたのが嘘のようだ。不審に思った綾杜が「麻子?」と様子をうかがう。少ししてから沈んだ声が聞こえてきた。

 

「なくなっちゃったの。……だからお泊まりしてない」

「は? あれか、春休みに友達できたって言ってたのは麻子の勘違いだったのか」揶揄からかうように言うと、麻子は今にも泣きそうな声で否定した。

「綾杜のばか! ちがうもん、夢叶ちゃんとは友達だもんっ……!」

「ああ、わかったわかった。冗談だろ。頼むから大声出すな。で、何があったんだよ?」


 何だかんだ話を聞こうとしてくれる綾杜に、麻子がぽつりぽつりと話し始める。

 

吉良きら君が、仕事のつごうで遠くに行っちゃうんだって……」

「誰それ」

「夢叶ちゃんのお父さん」

「ふうん。じゃあまたいつか会えるじゃん」

「そう、かもしれないけど。私すごく楽しみにしてたから。はじめての友達で、友達の家にお泊まりするのもはじめてだったし……」


 落ち込む声に、「友達できた!」と嬉しそうに報告してくれた笑顔を憶い浮かべた。それはおよそ五ヶ月前、麻子が小学二年生に上がる前の春休みのことだった。夢叶から貰ったという黄色いきつねのぬいぐるみを、「きいちゃん」と日頃から可愛がっている姿が脳裏を過ぎる。


「麻子の気持ちもわかるけどな。でもそれは向こうも同じだろ?」

 こぼしたそれに、麻子がえっと口を開く。綾杜は名前しか知らない女の子を茫然ぼんやりと想像しながら言った。

「夢叶って子も、麻子に会えなくて今頃悲しんでるんじゃねえのか?」

「……夢叶ちゃんが悲しいのは、いや」

「だったらその楽しみにしてた気持ちは、未来に取っておけよ」

「未来?」

「そ。今回会えなかった分、会えたときの楽しみが倍に増えるだろ」

「うん、そうかも……! 何か綾杜のおかげで元気出てきた! すごいよ綾杜!」


 徐々に声色が明るくなった麻子に、綾杜がほっと笑みを浮かべる。誇らしげに鼻先を擦って言った。

「まあ、お前よりも大人だからな」

「たった一個だけでしょっ、綾杜のいじわる! 私のほうが綾杜よりも先に宿題おわらせるもんね」

「は? 一個下のガキに言われたくねえ。ってもう切れてるし」

 唐突に切れた受話器を、ため息をこぼしながら下ろす。然し麻子が元気になったことが嬉しいのか、その口許くちもとは弛んでいた。従兄妹いとこ同士である二人は、本当の兄妹きょうだいのように仲が良く、こうして電話をすることはよくあった。


 テーブルに広がっているプリント類へ意識を戻すと、今度はインターフォンが鳴った。家に訪ねてくる人物はある程度決まっているため、綾杜は胸に期待を躍らせながら玄関を解放した。

しん君!」

 見上げながら嬉しそうに言うと、「こんにちは綾杜」と穏やかで通る声が響く。儚くも深みのある声は、彼の魅力の一つだ。つい先刻さっきまで綾杜にあった、大人ぶった言動は見られない。小学三年生らしい眩さに耀かがやいている。

「ちゃんと、誰か確認してから開けないと駄目だよ。悪い人だったらどうするの?」

「そしたらその悪い奴を、俺の妖攻ようこうでぶっとばす」

「ふふ。綾杜は頼もしいね」

 

 生成りに、淡緑色と秘色ひそくの縦縞が入った、爽やかな木綿の浴衣を身に纏った慎が玄関を上がる。透き通った、乳白色にゅうはくしょくの髪が柔く揺れた。「今日は綾杜の大好きな水羊羹みずようかんを持ってきたよ。新作なんだって」、と銀の髪飾かみかざりを指に通した手にある手提てさげを、ひょいと持ち上げながら見せる。

 慎は綾杜の家へ遊びに来る際、毎回綾杜の好物である和菓子を持参する。そんな綾杜は、慎と和菓子を味わう時が心胸こころから好きであった。それは綾杜が慎に憧れを抱いているから、という事実も大きい。

(高校生になったら、俺も慎君と同じウルフカットにしよ)

 柔らかなウェーブが入った、襟足えりあし長めのヘアスタイルは、慎の優美な顔立ちをより一層際立たせていた。左眼の黒い瞳孔どうこうを囲う虹彩こうさいは、髪と同じ乳白色をしており、右眼は淡い緑色をしている。九尾の狐特有のオッドアイである。

 

(麻子の父さんは色のある白って感じだけど、慎君は透き通るような白なんだよな。いつ見ても、慎君の左眼は満月みたいにきれいだな)

 

 キッチンで、水羊羹みずようかんを皿に乗せる青年の姿を、綾杜は羨望の眼差しで見つめていた。今年十八になる慎とはここのつの年齢差があるものの、二人は親友である。そもそも慎は、綾杜が生まれる以前から、綾杜の父である白波清しろなせいと友人であった。慎がまだ幼い頃、清に助けてもらったことがあるらしく、それから二人の交友が始まったらしい。慎と清も年齢差があるものの、良い友好関係が続いている。


(今年で三十七になる父さんと、九歳の俺と友達なんて変な感じだけど、この先もこの関係が続いていくっていう自信がある。慎君は年齢で人を見ないしな)

 

 乳白色の左眼下にある黒子ほくろは色っぽく、両耳を飾る華奢な耳飾ピアスは、本人と一体化するみたいに柔く揺れている。細身ながらも均整の取れた体躯たいくは、浴衣越しにも感じられる。静謐で儚い色気が慎にはった。


「そんなに熱い眼差しで見られると、流石に照れるなあ。はい、用意が出来たから一緒にいただこうか」

 少年の頬が途端に赤らむ。優美な笑みを浮かべる青年から、咄嗟に水羊羹みずようかんへ眼を向けると、その表情は瞬く間にきらめいた。羊羹の底から上までの大半が湖色こしょくに光り、その上の天辺てっぺんは雪のように白く、金箔きんぱくが散っている。それはまさしく、うつくしい富士山を体現していた。


「ふふ。そんなに慌てて食べると、喉に詰まらせちゃうよ」

「好きな物を食べる時は自然とこうなっちまうんだよ。でも慎がくれた物だから、味わって食う」

 黒文字くろもじでそっとすくい、小さく運び直す姿に慎が微笑む。

「あ。そういえばさっき、慎君をニュースで見たよ」そう話し始めた綾杜に、不思議そうに首を傾げる。綾杜はふうと息を吐いては笑みをこぼした。

「俺にくらいかくすなよ。先週まですごかった猛暑が、今週に入ってから和らいだの、あれ慎君の妖術のおかげだろ?」

 唇のすぐ傍まで来ていた、黒文字を持つ慎の手が僅かにまる。「よくわかったね」と口にしては、瑞々しいそれを口に運んだ。


「あたりまえだろ。慎君は九尾の狐の中でも一番すごいんだから!」

 自信たっぷりに答えては、にっと口端を持ち上げる。微かにオッドアイを揺らした慎は、そっと睫毛を下げ、薄い笑みを浮かべた。

「そうえば慎君、今日は何で妖装ようそう使って来なかったんだよ?」

「え?」

「おでこ、少しだけ汗かいてた。いつもだったら、その髪飾を使って移動して来んのに」

 僅かに眼を瞠った慎が、一度手を停める。感心したようにうなずいては口を開いた。「凄いね綾杜は」ふわり微笑む姿に、綾杜が眉間を顰める。

 

「実はね、俺、髪飾使うの辞めたんだ」

「は……?」

 綾杜の表情が固まる。慎は穏やかな面持ちで続けた。

「実は、髪飾とかえでのことで、綾杜に話があって来たんだ」

「楓って、慎君の親友の?」

 肯く慎の微笑みに、哀しみの色が見えた気がして息を呑む。綾杜は楓との面識が一度しかないものの、慎から話を聞いていたので、知らず知らずのうちに楓のことを知っていた。楓もまた、九尾の狐であった。――慎と同い年で、幼馴染であることや、中華料理が好きなこと。また綾杜と違い、甘い物が得意では無いこと。プロフィールを半分ほど埋めることが出来るくらいには、楓のことを知っていた。


 慎の笑みに不安を覚えた綾杜が眼を逸らす。と、視線の先に意識が留まった。それは偶然、慎と楓にった時に、三人で撮った写真だった。――うつくしい青藍色せいらんいろの髪を靡かせる楓は、持ち上げた口角から八重歯を覗かせている。綾杜の後ろで屈む二人は、明るい顔を見せながら、固定電話の傍にある写真立ての中で笑っていた。それは一年前の出来事であった。


「楓ね、亡くなったんだ」

 放たれた言葉に、呼吸いきが停まる。「は、何言って……」と動揺を露わにした綾杜の手から、黒文字が滑り落ちた。

「死んだんだ、黙っていてごめんね」

 ひやりとした冷たいものが、胸の真ん中から垂れ落ちる。

「……いつ」

「今年の二月だよ」

 ふと、今度は熱い何かが腹から逆流した。湧き上がるそれが怒りなのか哀しみなのか、判別がつかない。

「何で……何で、教えてくれなかったんだよっ! もう、半年も経ってるじゃねえか」

 苦しそうに声を荒げる姿に、ごめん、と静かに謝る。

「父さんと母さんは、知ってたんだよなっ?」

「うん。知っていたよ。本当にごめんね……。綾杜にはまだ言わないで欲しいって、俺が二人にお願いしたんだ。せい桃子ももこさんも悪くない。全部、俺の勝手な我儘だよ」

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