43 楓の最期と受け継ぐ者


 気付けばせみこえみ、硝子窓がらすまどに射す影が一段と濃くなっていた。沈黙を埋めるみたいに、テレビからはちかちかと灯りと音声が漏れ続けている。

 

「別れた元恋人と復縁? いやあ、ないすっね。だって推しの氷上晶ひがみあきらが一番で、俺の存在なんてカタチだけでしたもん。友達に戻るのも無理っす」

「そうですね……。私は一度だけありますけど、結局別れちゃいましたね。些細なことなんですけど、食べ方とか所作って言うんですか。お互いに受け入れ難い部分があって。指摘するとかちんときたり、気まずい空気になることも多くて……。二度目の終わりを迎えるよりも、関係を続ける方が難しかったんです」

 

 テレビ画面の左上には「真夏の恋愛インタビュー第三弾! 元恋人と復縁したことはある? ありなしインタビュー!」とポップなフォントで書かれていた。――どうでもいい。綾杜は何時いつになく耳障りに感じた。もう、この世に楓は居ない。その事実を受け止めることが、どうしても出来ない。苛立ちに似た葛藤のボリュームを上げていた綾杜は、慎の意識がテレビに向いていたことに気付いていなかった。

「僕は少し前に復縁した彼女と喧嘩別れをしたんですけど、その別れ方に後悔して――」

 ぷつん、音が切れた。無造作にリモコンを掴んだ綾杜が、電源を切ったのだ。慎の意識が、ふっと眼前に居る少年に戻る。

 

「俺が、ガキだから言わなかったのか」

 口にしてすぐ、ばか、そうじゃねぇだろと内心で突っ込んだ。綾杜の胸中は雨風にさらされたみたいにぐちゃぐちゃで、責めたくないのに、非難したくなるような言葉がつい口を突いた。違うよ、と否定する涼やかな声に、ぎりと奥歯を噛み締める。

「俺は慎君の友達じゃねえのかよ……」

「親友だよ」

「じゃあ何でっ……」睨むように、それでいて今にも泣き出しそうな顔を向けた綾杜を、透き通るオッドアイが映す。慎は静かに言った。

「楓はね、禁忌きんきおきてを犯した後に死んだんだ」

 綾杜の口から渇いた息が漏れる。冬の寒さに覆われたみたいに、全身が硬直した。

おぼえているかな。今年の一月、綾杜がかくれて両親の指導現場を見に行った時のことを。其処そこで禁忌の掟を犯した妖狐の末路を眼にした綾杜は、大きな打撃ショックを受けたでしょう……。そんな君に、更なる打撃ショックを与えてしまうことを懸念した。いや、それは都合の良い言い訳に過ぎない。俺がそんな綾杜を見るのを避けたかったんだ……。綾杜はよく俺のことをめてくれるけど、罪深くて、情け無い生き物に過ぎないんだよ」


 首を振っては、「俺は慎君のことをよく知ってる……」と呟く。感情のこもった声に、慎はゆっくりと睫毛を伏せた。

 

「楓の死後、俺はこの髪飾かみかざりを使用することがとても恐ろしくなった。綾杜も知っている通り、禁忌の掟を犯すには、この妖装ようそうが必須になるからね。それから時間を掛けて考え、最近になってようやく決心したんだ。この妖装を、正しく使ってくれる者に受け渡そうって」

「じゃあやっぱり九尾の狐が」、と口にした綾杜に、ゆっくりと首を振る。

「九尾の狐は、適任であるようで適任ではない者が多い。便利が故に大切に扱わず、都合よく利用する者や、妖装の恐ろしさを学ぶことなく使う者も多いからね。そして困ったことに、俺の妖装は好き嫌いがはげしい。――綾杜もよく知っているでしょう。嫌いな男の人に噛みついたりすることを」

 くす、と困ったように肩を竦める。然し、銀の髪飾かみかざりを映す眼差しは優しかった。綾杜の深いところがずしりと軋む。


「それでね、ここ最近になってようやくその答えが出たんだ。綾杜、君さえ良ければこの髪飾をもらってくれないかな?」

「は……いや待て。だからって何でそうなるんだよ」

 訳がわからないと訴えるように、綾杜は怪訝な顔を向けた。

「いきなりじゃないよ。だって綾杜、去年の誕生日に、髪飾が欲しいって半泣きで俺に強請ねだったじゃない。忘れちゃった?」

 途端に耳先を赤らめては、「そんなの、の時のエピソードだろ」と眼線を外す。

「どうして? あの時の綾杜すごく可愛かったよ。勿論今も可愛いけれど」と首を傾けると、「うるせえ……」と綾杜は外方そっぽを向いた。眼元を和らげた慎がくすと笑む。綾杜は桃色の髪をくしゃくしゃといじってから、「それで、俺にあげようと思った本当の理由は何だよ?」と尋ねた。


「それは、他の誰よりも君が適任だと思ったからだよ」

 凝然じっと黙ったまま見つめる綾杜に、話を続けた。

「綾杜は妖装の素晴らしさも、恐ろしさも両方知っている。そして君は、まだ子どもとは言え、客観的な眼で物事を見る力にも優れている。何よりこの髪飾は、綾杜のことをとても気に入っているからね。でも、押し付けるつもりは全然無いよ。選択するのは綾杜だ。嫌だったら断ってくれて構わない。綾杜の自由だよ」

 そう言っては、水羊羹みずようかんを一口運んだ。綾杜は予想もしなかった提案に困惑した。落ち着かない心胸こころ持ちのまま、銀の髪飾へ眼を向ける。慎の言う通り、髪飾は気に入らない男に噛みつくことがあったが、綾杜は一度もそんなことをされたことは無かった。


「俺以外にあげようと思った奴、いないの?」

「いないよ」

「一人も?」

「うん。一人もいない」

 落ち着き払った声は、嘘を吐いているようには見えない。綾杜は考え込むように黙った。暫くして顔を上げては、躊躇うようにまた俯く。

「綾杜、訊きたいことがあるなら口にしていいんだよ。遠慮しなくていい」

 優しい声だった。それでいて綾杜が何を訊ねようとしているのか、解っている風でもあった。黒眼を揺らした綾杜がそっと顔を上げる。


「楓は、どんな最期さいごだったの?」

 知りたくない。でも知らなければならない、と綾杜は思った。少しの間を置いてから、慎が口を開く。

「殺されたよ。禁忌の掟でちぎりを交わした相手の手によって」

「そいつはまだ、生きてんの……」

「うん。生きてるよ。楓の妖装である黒い髪飾を所有しながら」

「くそっ……。だったらそいつに会ってかたきをっ」

「綾杜」

 静かな声が制止する。綾杜は小さく肩を揺らした。然し、続く声は変わらず穏やかなものだった。

「綾杜も知っている筈だよ。禁忌の掟を犯した妖狐は、本来の寿命を真っ当することが叶わなくなるって」

 一瞬声を詰まらせるも、綾杜は納得出来ない様子でオッドアイを見つめ返した。

「復讐してやりたいって思わねえの……?」

「思わないよ」

「嘘だ……。慎君がそいつに妖攻すれば」

 遮るように、慎が首を振る。

「嘘じゃないよ。その相手は現在いま、楓の妖術を。楓のうつくしい妖術に妖攻するなんて、俺には出来ないよ」

 途端に、綾杜は後悔した。ごめん、と口にすると、優しい声で「大丈夫だよ」と返ってくる。「俺の方こそごめんね」と謝る繊細さに、胸の奥が軋んだ。

 

「待てよ……。じゃあつまり楓は、相手が妖攻を受けて死んだんだよな?」

「そうだね」

「じゃあだとしたら、何で現在いまも写真に楓が写ってるんだ? 俺も楓のことよく憶えてるし」

 写真立てに眼を走らせた綾杜が、強い疑問を示す。

「それはね、その相手が完璧に妖術を扱うことが出来なかったからだ。妖術を自分のものに出来ていない、半端な状態で妖攻したんだ。だから楓の身体も憶い出も、光の粒になって完全に消えることは無かった……。それだけで、十分だよ」

 その声音に憤りといった類は無い。ただ、寂しさだけがある。

 髪飾に視線を戻した綾杜はよく考え始めた。――父さん母さんは? と思っても見たが、父さんは髪飾に噛まれ、母さんの手からはすぐに離れてしまったことを憶い出し、その考えをすぐに打ち消す。

 自分に相応ふさわしいかどうかを考えるのは、恐ろしかった。相応しくない理由ばかりが幾つも浮かぶ。然し同時に、相応しいかどうかは、現在いますぐに解る問題ではないとも思った。

「わかった。慎君の髪飾は俺がもらう。ぐだぐだあれこれ考えて、何もしねえのは好きじゃねえからな。だから、実際に使ってみて扱えないってなったらその時は返品する。それでいいか?」

「ふふ。ありがとう。髪飾も喜ぶよ」

 不安はある。然し、自分の考えで決断したことについて、綾杜は少し誇らしい気持ちがした。


「慎君」「うん?」「髪飾をもらってやる代わりに、一つ約束して欲しい」と言うと、「なあに?」と柔らかな声が返ってくる。綾杜は真面眼まじめな顔を作って言った。

「一人で全部背負わないって。……親友が少しも頼ってくれないの、すげえ悲しいんだぞ」

 オッドアイが、微かに波打つ。揺れる湖面に月が浮かんでいるみたいに、儚く。慎は小さく口端を持ち上げて微笑んだ。

「何笑ってんだよ……」

「いや、綾杜は俺より何倍も大人だなあって」

「ばかにしてんのか?」

「違うよ。めてるの。――約束、必ずまもるよ」

 むすっとしたつり眼が青年を睨む。然しその頬は少し赤らんでいた。はあと息を吐き出した綾杜が、夜の気配を取り込む硝子窓に視線を遣る。


「父さんと母さん、俺が慎君の髪飾もらったって聞いたら仰天するだろうな」

「あ。それなら事前に話を通してるから、清も桃子さんも知ってるよ」

「は?」

「綾杜はまだ九歳の未成年だ。両親の承諾も得ずに妖装を渡すことはできない。……正直怒られるかなって思ったけど、二人共真剣に耳を傾けてくれて、『息子の考えに一任する』って言ってくれたんだ。今日はわざと綾杜に留守番をさせて、話しやすい環境を作ってくれたんだよ」

「そっか……」込み上がる感情とは裏腹に、素っ気ない返事が空気に混ざる。くすぐったい気持ちになった綾杜は、徐に水羊羹みずようかんを口に運んだ。

「そういえば綾杜、夏休みの宿題は終わったの?」

 ぎくり、と肩を揺らす先で、積み重なっているプリント等を認めた慎が、「一行日記なんて懐かしいなあ」と呟く。そして「日記はも角、解らないところがあれば教えようか?」と提案した。

「いいのか?」

「ふふ。勿論だよ」

「やった! 麻子よりも早く宿題終わらせてやる」

 急にやる気スイッチが入ったみたいに、気合のこもったポーズを決める。両方の拳を掲げる姿に、慎はくすと微笑んだ。

 

「そういえば、麻子ちゃんは元気?」

「元気元気。ただ友達に会えなくてしょげてたけど」

「そう。それは寂しいね」

「夢叶ちゃん夢叶ちゃんて、その子の名前をうるせえくらい言うんだよ」

 急に、慎の表情が固まった。蝋燭ろうそくの灯りが消えたようなおもてに、綾杜が眉間を寄せる。

「慎君……?」

「夢叶ちゃん、て言う子の苗字は知ってる?」

「え、ああ、確か月雪だったと思うけど……」

 慎が、硬く瞼を閉ざす。何かを必死に堪えるみたいに――――。それは、深い失望や怒りの類を表しているようで。然し、それが何処に向けられた感情なのか、綾杜には検討も付かない。ただ漠然とした不安を覚えた。

「慎君は、夢叶って子と知り合いなのか?」

「いや。俺が一方的に知っているだけだよ」

「じゃあ夢叶が現在いま何処に居るか解るか? 何か父親の仕事の都合で遠くに行ったって、麻子が寂しがってるから」

 僅かに顔を顰めた慎は、もう一度瞼を伏せてから言った。

「夢叶ちゃんのご両親……今月の上旬に亡くなったんだ」

「まさか、だって仕事だって」

「それはきっと、麻子ちゃんを傷つけたくなくて吐いた嘘だと思う」

「は……、っ夢叶は、無事なのか」

生命いのちはね、無事だよ」


 綾杜の脳裏に、麻子の笑顔が浮かんだ。事実を知らない麻子のことを――。綾杜は恐怖を覚えた。慎が楓のことを話せなかった心胸こころの内が、少しだけ解ったような気がした。


「麻子、会えるのずっと楽しみにしてたんだよ……。こんなの、酷過ぎるだろ」

 ごめん、と慎が謝る。

「慎君は、何も悪くないだろ」

「悪いと思うよ」

「……何に?」

 答えは無かった。そして綾杜も、それ以上追求する気になれなかった。慎が自分と同じ――いや、それ以上に傷ついているように見えて。

 穏やかな陽射しから、急に真夜中に放り出されたみたいな、暗い沈黙が流れる。暫くしてから、慎は俯く少年の名前を呼んだ。重々しく顔を上げては眼を瞠る。そこには何時になく、強い意志を露わにした顔が在った。

 

「俺がどうして夢叶ちゃんを知っているのか、綾杜には話したいと思う。話さなくちゃいけないとも思う……。だけどそれは、間違い無く綾杜を傷つける。だから聞きたくなければこれ以上は何も言わない。……狡い訊き方をしてごめんね」

 聞く、と答えた綾杜の返事は早かった。好奇というよりも、向き合わなければならない、という思いと緊張が背筋を伸ばす。

「長い話になる。それでも聞いてくれるかい?」

 綾杜はうなずいた。その表情を認めた慎が瞼を下ろす。ゆっくりと息を吸いながら口を開いた。

「起きた時期は異なる。だけど夢叶ちゃんの件と楓の件、この二つは密接に繋がっている」


∞ ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ∞


 そっと、瞼を開ける。

 上半身を起こした綾杜は、ベッド脇にあるサイドテーブルへ眼を向けた。其処そこには一枚の写真立てが飾られており、幼い綾杜と、慎と楓が満面の笑みで写っている。――十七、という若さで亡くなった楓の年齢を、綾杜はもう四つも超えようとしていた。少しだけ色褪せた写真を眺めた後、再び横になっては瞼を閉じ、深い眠りへ意識を潜らせるのだった。

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