41 たった一人の最良の人
くらりと脳が揺れた気がした。鋭利な刃物が突き刺さったみたいに、夢叶の身体は動かない。
――不幸せになればいいのに。
つい数時間前に口にしたそれが、呪いのように内側に
「犯人が不明なのはどうして、
疑問符を失った声に、綾杜が静かに肯いた。「勿論妖攻だ。
「じゃあどうして犯人が不明なの……」
か細い余韻が響く。それは、と綾杜が口を開こうした時。急に振動音が鳴り始めた。二人が顔を見合わせる。立ち上がった彼女が徐にバッグを覗くと、スマホが小刻みに揺れながら画面を明るくさせていた。「お爺ちゃん」、と表示されている名前を口にする。束の間、綾杜は気遣うように「長居して悪かったな。些細なことでもいい。何かあれば迷わずに俺を呼べ」と声を掛け、
夢叶だけが残った空間に、一定に響く振動音だけが
「もしもし」
「夢叶か? 夜遅くにすまないな」
聞こえてきた柔らかな声に、夢叶は不意に泣きそうになった。すぐに鼻先を
「お爺ちゃんの方こそどうしたの? もしかして何かあった?」「いいや。ただちょっと孫の声が聞きたくなってな」そう言われる時は決まって、祖父が夢叶を心配してる時に言う台詞であった。
「おや、どうして謝る?」
「だって心配掛けちゃったから。ニュースを見て私の身体を心配してくれたんだよね?」
「最近、転落した若者を
ありがとうと夢叶が眉尻を下げながら言うと、「身体の方は回復したか?」と祖父は訊いた。「うん。すぐに熱も下がったから大丈夫だよ」と安心させるように返事をする。
「そうか良かった。身体の健康が一番だからな。食事は抜かずにしっかり食べるんだよ。あと睡眠もな。この二つが出来れば、何か辛いことがあってもきっと乗り越えられるからな」
一度口を結んだ夢叶が、お爺ちゃんと呼ぶ。
「お爺ちゃんは、九尾の狐に会ったことある?」
「ああ、あるよ。どうした急に」
「えと、今授業の課題で九尾の狐について調べてるの。それで興味が膨らんじゃって……」
「そうか。だが悪いのう。私はよく知らんのだ。――でも確か
「え、お父さんの書斎に?」
「ああ。私の記憶が正しければな。探しておくから、今度家に帰ってきた時にでも見てみるといい」
「うん。ありがとうお爺ちゃん……」
それから暫く話をし、おやすみなさいと言って通話を後にした。画面が暗くなると共に、穏やかになれていた気持ちが泡のようにふつりと溶ける。――ふと、重要なことを
∞ ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ∞
「正月は実家に帰るのか?」
「うん。お爺ちゃんとお婆ちゃんと一緒に過ごすよ。明希人君は?」
「俺も帰省する。父さんと母さん、そして姉さんに会いにな」
大学に入学してから濃い日々を送り、
柔らかな色合いが暖かい、
「いつか会いたいな。明希人君のご家族に」
「夢叶に会えたら、家族は喜ぶだろうな」
「ご家族も皆、優しいんだろうな」
「どうしてそう想う?」
真顔で
「だって明希人君が、温かくて優しい人だから」
一点の濁りも無い
「ありがとう……。だが俺は、そんな風に言ってもらえるような人間じゃない」
落ち着いた声色だった。すぐに触れられる距離に居るのに、彼がふと遠くに感じられる。金色の眸に一瞬、切ない寂しさが浮かんだ。
「そう思う気持ち、解る……。でも私は、そういう一面も含めて、そのままの明希人君が好きだよ。明希人君だから、一緒に居たいって想うの」
「恋人になって半年と少しだけど、明希人君の優しさを、私はもう数え切れないくらい知ってる。この大好きなホットチョコレートもそう。手間だって掛かるのに、よく作ってくれるでしょう。このブランケットもモコモコの靴下も、冷え性な私のために
足元を
「下心だとしたら……」
「え?」
「一瞬でも、夢叶にとって最も良い人でありたい。――そういう、自分をよく見せるための下心から来るものだと聞いても、嬉しいと想うか」
視界に留めた恋人の表情に、金色の眸が揺れる。オッドアイに
「嬉しいと想うよ。
迷いなく告げたそれに、色の異なる双眸が微かに見開く。
「下心ってネガティブな意味で使われることが多いけど、本心を示してるんだよね。明希人君の下心は聞き間違いじゃなければ、私のことを大切にしたいって言っているように聞こえるよ。――私も明希人君にとって、最良の人になれるように頑張るね」
沈黙のまま見つめる彼に、夢叶の中に次第に羞恥が生まれた。身体を小さく丸めるように、「ごめん、私気に触るようなこと言っちゃったかな……」と
「もう、
「え」
「たった一人の、最良の人に」
しっとりと響いたそれに、夢叶の頬が薔薇に染まる。明希人は、赤い花を咲かせる頬をそっと撫でた。際限を知らない熱は頬から耳の方へと広がり、それを認めた男の唇が、くすりと弧を描く。色気を含んだその微笑みに、夢叶の胸が甘く痺れた。
すり、と撫でる頬はふわりと柔らかく、どれだけ触れていても飽きる気がしない。薔薇色の下に位置する瑞々しい唇の膨らみに、ほんの
「あ、明希人君のご家族ってどんな方達なの?」
突如打った声に、明希人がぱちと瞬きする。夢叶は異なる羞恥を誤魔化すように話を続けた。
「ほ、ほら私、すごく食べるから、いつかお会い出来た時に引かれないかなって……」
そうこぼしては、視線を宙へ彷徨わせる。
「いや、姉さんは夢叶以上によく食べる。だからその心配は無い」
滑らかな頬から指先を離した明希人が答える。瞬く間に消えた熱に、夢叶は寂しさを覚えた。勝手だなと己を責めては、切ない後悔が過ぎる。それらを誤魔化すように、もう一度マグカップへ手を伸ばした。
「父さんも母さんも姉さんも、思い遣りのある人だ」
「明希人君と一緒だね。いつか会える日が楽しみだな」
未来を見つめる朗らかな声に、明希人は何も言わなかった。その代わりとでも言うように、
別の話が広がると共に、胸に生まれたしこりは小さくなっていった。気付けば二人のマグカップから立ち昇っていた甘やかな温もりは、冬の冷たさに浸透するように、姿を消していた。
∞ ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ∞
月が深く染まった夜を光らす頃。つま先をきゅっと丸めた夢叶は、膝を抱えるように座っていた。視界を閉ざすように、両膝に顔を押しつける。彼女の傍にあるローテーブルには、綾杜が使ったグラスが、まだそのまま置かれていた。
ふと
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