41 たった一人の最良の人


 くらりと脳が揺れた気がした。鋭利な刃物が突き刺さったみたいに、夢叶の身体は動かない。

 

 ――不幸せになればいいのに。

 つい数時間前に口にしたそれが、呪いのように内側にこだまする。ひりひりとした痛みが喉をめた。息苦しさを覚えては、小さく息を吸う。


「犯人が不明なのはどうして、妖攻ようこうじゃないの……」

 疑問符を失った声に、綾杜が静かに肯いた。「勿論妖攻だ。ふだに表示されるのは妖術によって被害を受けた者、又は妖術を使って悪事を働いた者だけだからな。普段ニュースで眼にするような、人間の手による殺人や盗難といった悪事が札に表示されることはない」

「じゃあどうして犯人が不明なの……」

 か細い余韻が響く。それは、と綾杜が口を開こうした時。急に振動音が鳴り始めた。二人が顔を見合わせる。立ち上がった彼女が徐にバッグを覗くと、スマホが小刻みに揺れながら画面を明るくさせていた。「お爺ちゃん」、と表示されている名前を口にする。束の間、綾杜は気遣うように「長居して悪かったな。些細なことでもいい。何かあれば迷わずに俺を呼べ」と声を掛け、髪飾かみかざりの中へ姿をくらました。

 夢叶だけが残った空間に、一定に響く振動音だけがこだまする。落ち着かせるように深く酸素を取り込んでは、画面をタップした。


「もしもし」

「夢叶か? 夜遅くにすまないな」

 聞こえてきた柔らかな声に、夢叶は不意に泣きそうになった。すぐに鼻先をそらへ向けながら、大丈夫だよと明るく答える。

「お爺ちゃんの方こそどうしたの? もしかして何かあった?」「いいや。ただちょっと孫の声が聞きたくなってな」そう言われる時は決まって、祖父が夢叶を心配してる時に言う台詞であった。心胸こころ当たりがある夢叶が、「ごめんね」と口にする。

「おや、どうして謝る?」

「だって心配掛けちゃったから。ニュースを見て私の身体を心配してくれたんだよね?」

「最近、転落した若者を花夢癒はなむゆで救ったことか? そんな奇跡が起こせる妖狐は夢叶しかおらんからな。辛いこともあるだろうが、私らは夢叶の行いを誇りに想うとるよ」

 ありがとうと夢叶が眉尻を下げながら言うと、「身体の方は回復したか?」と祖父は訊いた。「うん。すぐに熱も下がったから大丈夫だよ」と安心させるように返事をする。

「そうか良かった。身体の健康が一番だからな。食事は抜かずにしっかり食べるんだよ。あと睡眠もな。この二つが出来れば、何か辛いことがあってもきっと乗り越えられるからな」

 一度口を結んだ夢叶が、お爺ちゃんと呼ぶ。


「お爺ちゃんは、九尾の狐に会ったことある?」

「ああ、あるよ。どうした急に」

「えと、今授業の課題で九尾の狐について調べてるの。それで興味が膨らんじゃって……」

 眼線めせんを視界の隅へ逸らしては、頬に垂れる金糸を耳へ掛け直す。

「そうか。だが悪いのう。私はよく知らんのだ。――でも確か吉良きらが使ってた書斎に、九尾の狐についての記述が載ってる書物があったと思うが」

「え、お父さんの書斎に?」

「ああ。私の記憶が正しければな。探しておくから、今度家に帰ってきた時にでも見てみるといい」

「うん。ありがとうお爺ちゃん……」


 それから暫く話をし、おやすみなさいと言って通話を後にした。画面が暗くなると共に、穏やかになれていた気持ちが泡のようにふつりと溶ける。――ふと、重要なことをおもい出すように、寒かった晩の出来事へ意識がさかのぼって行く。


∞ ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ∞


「正月は実家に帰るのか?」

「うん。お爺ちゃんとお婆ちゃんと一緒に過ごすよ。明希人君は?」

「俺も帰省する。父さんと母さん、そして姉さんに会いにな」


 大学に入学してから濃い日々を送り、師走しわすを迎えたこの日。夢叶は明希人の部屋を訪れていた。春に始まった二人の交際つきあいは穏やかに季節の変化を味わい、寒い冬を迎えている。

 柔らかな色合いが暖かい、格子柄こうしがらのブランケットを膝に掛け、お気に入りの猫クッションを抱えた夢叶は、明希人とソファでくつろいでいた。クッションの絵柄とそっくりなユアは、ソファの下で瞼を瞑りながら丸くなっている。夢叶は眼前のテーブルに置かれている白のマグカップを取り、明希人が淹れてくれたホットチョコレートに口を付けては笑みをこぼした。


「いつか会いたいな。明希人君のご家族に」

「夢叶に会えたら、家族は喜ぶだろうな」

 口許くちもとが自然と弛む。彼の微細な声の変化に気付かないまま、金色の眸は優しく細められていた。

「ご家族も皆、優しいんだろうな」

「どうしてそう想う?」

 真顔でくオッドアイには、静けさが浮かんでいる。夢叶は当然あたりまえのように口角を持ち上げて言った。


「だって明希人君が、温かくて優しい人だから」


 一点の濁りも無いひとみは、太陽をまっすぐに見つめる向日葵ひまわりのようで。明希人の心胸こころに波風が立つ。相反する騒めきが、ざわりと胸を撫でた。オッドアイを逸らしては、彼女とペアで購入した、黒のマグカップへ手を伸ばす。甘い香りが鼻先を掠めた。

 

「ありがとう……。だが俺は、そんな風に言ってもらえるような人間じゃない」

 落ち着いた声色だった。すぐに触れられる距離に居るのに、彼がふと遠くに感じられる。金色の眸に一瞬、切ない寂しさが浮かんだ。

「そう思う気持ち、解る……。でも私は、そういう一面も含めて、そのままの明希人君が好きだよ。明希人君だから、一緒に居たいって想うの」

 花弁はなびらのような優しい声に、オッドアイが微かに揺れた。

 

「恋人になって半年と少しだけど、明希人君の優しさを、私はもう数え切れないくらい知ってる。この大好きなホットチョコレートもそう。手間だって掛かるのに、よく作ってくれるでしょう。このブランケットもモコモコの靴下も、冷え性な私のために贈物プレゼントしてくれた……。大切にしてもらってるなって、毎日嬉しい気持ちになるんだよ」

 足元をかくしているブランケットを持ち上げながら「モコモコピンク」と明るく呟く。ピンクに包まれたつま先を、嬉しそうに丸めたり伸ばしたりしている。明希人が一瞬、眼元を赤らめ、眉間を寄せたことには気付いていない。

 

「下心だとしたら……」

「え?」

「一瞬でも、夢叶にとって最も良い人でありたい。――そういう、自分をよく見せるための下心から来るものだと聞いても、嬉しいと想うか」

 視界に留めた恋人の表情に、金色の眸が揺れる。オッドアイになみだは無い、それなのに何故か、哀しそうに見えた。彼の銀糸に、そっと手を伸ばす。


「嬉しいと想うよ。心胸こころから」

 迷いなく告げたそれに、色の異なる双眸が微かに見開く。

「下心ってネガティブな意味で使われることが多いけど、本心を示してるんだよね。明希人君の下心は聞き間違いじゃなければ、私のことを大切にしたいって言っているように聞こえるよ。――私も明希人君にとって、最良の人になれるように頑張るね」

 向日葵ひまわりのように輝く眸が、オッドアイを陽の光で包むように見つめる。この世に一つしかない可憐な笑みが、心胸こころすべてをさらった。眩しいものでも見るみたいに、オッドアイを眇める。

 沈黙のまま見つめる彼に、夢叶の中に次第に羞恥が生まれた。身体を小さく丸めるように、「ごめん、私気に触るようなこと言っちゃったかな……」と口籠くちごもる。ふ、と緩慢に睫毛を伏せた明希人が、優しく首を振った。

 

「もう、最前とっくになってる」

「え」

「たった一人の、最良の人に」

 

 しっとりと響いたそれに、夢叶の頬が薔薇に染まる。明希人は、赤い花を咲かせる頬をそっと撫でた。際限を知らない熱は頬から耳の方へと広がり、それを認めた男の唇が、くすりと弧を描く。色気を含んだその微笑みに、夢叶の胸が甘く痺れた。

 すり、と撫でる頬はふわりと柔らかく、どれだけ触れていても飽きる気がしない。薔薇色の下に位置する瑞々しい唇の膨らみに、ほんの一時いっとき、オッドアイが移る。注がれる眼差しと艶のある雰囲気に耐えられなくなった夢叶が、躊躇いながら指先を離した。


「あ、明希人君のご家族ってどんな方達なの?」

 突如打った声に、明希人がぱちと瞬きする。夢叶は異なる羞恥を誤魔化すように話を続けた。

「ほ、ほら私、すごく食べるから、いつかお会い出来た時に引かれないかなって……」

 そうこぼしては、視線を宙へ彷徨わせる。

「いや、姉さんは夢叶以上によく食べる。だからその心配は無い」

 滑らかな頬から指先を離した明希人が答える。瞬く間に消えた熱に、夢叶は寂しさを覚えた。勝手だなと己を責めては、切ない後悔が過ぎる。それらを誤魔化すように、もう一度マグカップへ手を伸ばした。


「父さんも母さんも姉さんも、思い遣りのある人だ」

「明希人君と一緒だね。いつか会える日が楽しみだな」

 未来を見つめる朗らかな声に、明希人は何も言わなかった。その代わりとでも言うように、眼尻めじりを下げながら笑みを作る。――優しいのに、何時もと違う。妙な違和感を抱いた夢叶が口を開こうとする。と、明希人は徐に黒のマグカップへ手を伸ばした。彼女に視線を遣ることなく口に含んでは、「そういえば」、と憶い出したように話題を変える。

 別の話が広がると共に、胸に生まれたしこりは小さくなっていった。気付けば二人のマグカップから立ち昇っていた甘やかな温もりは、冬の冷たさに浸透するように、姿を消していた。


∞ ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ∞


 月が深く染まった夜を光らす頃。つま先をきゅっと丸めた夢叶は、膝を抱えるように座っていた。視界を閉ざすように、両膝に顔を押しつける。彼女の傍にあるローテーブルには、綾杜が使ったグラスが、まだそのまま置かれていた。

 ふとおもい出したそれと、一昨日眼にした麻子の最後が入り混じり、胸中が苦痛に歪んでいく。啜り泣く声と透明ななみだが、幾度となく冷たい床を濡らすのだった。

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