40 ひ弱と嘘ともう一つの事実


「そんなはず、ない」

 黒い雨雲が広がるように、夢叶の顔に影が落ちる。

「麻子のことは信じてる。でも私の身近に居る人だとは限らないし、まだわからないよね?」

 そうだと綾杜が肯く。

「だったら、不確かなまま疑いを強めるのは良くないんじゃないかな……」

 抗うというより、救いを求めるような声だった。綾杜がそっと睫毛を伏せる。

 

「お前が言ってることは間違ってない。でもな夢叶、麻子にも同じことが言えるか」

 ひく、と夢叶の指先が反応する。

「不確実だからという理由で、遺言を無視して生活出来るのか? 憶測は憶測でも、可能性がゼロじゃない限り気をつけるに越したことはねえ。それに今のお前は、俺からして見れば都合のいい逃げ道を探したくてそう言っているように聞こえる。身近な人間を疑うことへの罪悪。そしてその疑いが本当だった時の恐ろしさを味わいたくねえから――お前の顔にはその恐怖がある。俺の思い違いか?」


 それは、と言い淀んだ夢叶が小さく俯く。綾杜はふうとため息を吐いた。

 

「このひ弱のお人好しが。もう一昨日に起きたことを忘れたのか? 一番信頼してた男に、お前は裏切られたんだぞ」

 口を結んだまま双眸を揺らす彼女に、話を続けた。

「麻子がどんな想いでお前をまもり、消えると解っている遺言を俺に残したのか、その気持ちをよく考えろ。他の奴らみたいに、俺が麻子を忘れる可能性が高い中、あの馬鹿はしょうもねえ可能性に賭けたんだ……。麻子から聞いて間接的にお前を知っていたとはいえ、一昨日までの俺は、夢叶の身近に居る人間には当て嵌まらない。麻子が何を掴んでいたかは知らねえが、瀬戸際の中、親友を護って欲しいと俺に託した。その決断がなければ、俺たちはこんな風に出逢っていない。そしてお前はまだ暫くの間、無知で苦しい状況を彷徨っていた筈だ。――解るだろ。俺たちは遺言の意味を考えて、注意深く行動しないとならねえ」


 揺れる眸が男を見つめる。夢叶は静かに、膝上で二つの拳を握った。

「ごめん……。自分のことばっかりで情けないところを見せて、失礼なことを言った。……ちゃんと疑うよ。ちゃんと向き合う」

 申し訳なさそうに謝る姿を、綾杜は無言のまま見つめた。耳が痛い話を受け止めようとする姿勢に、混凝土コンクリートの隅に咲く花が思い浮かぶ。同時に懸念も浮かんだ。


(素直な上に馬鹿が付くほどのお人好し……。この性質が吉と出るか凶と出るかは、半々と言ったところか)

 そう思案しては、空気を和らげるように言った。

「身近な人間を疑って辛くなった時は、俺に吐き出せばいい」

「え?」

「仕方ねえから、俺が麻子の代わりに話を聞いてやる。愚痴でも八つ当たりでも何でもな。いいか、これは馬鹿な従妹いとこのためだ。……間違っても、変な勘違いはするなよ」

 眼を瞠っては、夢叶が柔らかな笑みをこぼす。「ありがとう。もちろん麻子のためだって解ってるよ。でも勘違いって?」と首を傾げる。徐に襟足をいじった綾杜は、「別に、何でもねえ」と素っ気無く口を突いた。

 

「じゃあ話を髪飾かみかざりに戻すぞ。これは俺の大事な相棒だからな、眼ん玉と耳の穴かっぴらいてちゃんと聞け」

 背筋をしゃんと伸ばした夢叶が、「お願いします」と一礼する。

「よし。そんじゃあ今から俺は、このに入る。そしたらお前は心胸こころの中で俺の名前を呼びながら、指先できばをなぞれ」

「え、綾杜君がこの中に……?」

 信じられない思いで、夢叶は髪飾りへ視線を向けた。ぱっと見はただのヘアクリップにしか見えない。混乱を浮かべる彼女に、綾杜は躊躇うことなく肯いた。

「そうだ。お前がすることは、そのたったの二つだけだ。簡単だろ。じゃあまた後でな」

「え、ちょっと待っ……」

 綾杜はそう言うと、眼配めくばせするように髪飾へつり眼を向けた。刹那、音も無く綾杜の姿が消え、しんとした空気に部屋が包まれる。

「え……」

 咄嗟に立ち上がり部屋を見渡すも、綾杜の姿は何処にも無い。困惑を浮かべた眸が髪飾を映す。が、特にこれといった変化も無い。夢叶は胸に手を当てたまま席に着いた。緊張した面持ちで髪飾を手に取り牙を開閉する。然し銀のふちの中はただの空洞である。

「あ、綾杜君?」

 髪飾に声を掛けるも応答は無く、部屋に在るのは夜の静けさだけだ。ふうと深呼吸しながら、綾杜に言われた手順を憶い浮かべる。心胸こころの中で名前を呼びながら、指先ですっと牙をなぞった。


(綾杜君……!)


「――遅えよばあか」

 知った声が聞こえたその時、手のひらにある髪飾が自ら牙を広げる。そこから銀の煌めきが舞ったと同時に、居なくなった筈の男が、テーブルを挟んだ向かいの正面に胡座あぐらをかいていた。

 呆然と口を半開きにさせる彼女に、「その阿呆面やめろ。馬鹿が感染うつるだろ」と悪態をく。驚きが強かったせいか、夢叶はまだ無言のまま固まり続けていた。

「おいひ弱。驚きすぎだ」

「だって、初めて見たから」

「確かに出入りするのを見たのは初めてかもしれねえが、夢叶、お前だって妖装に入ったことはある筈だ」

 眼を瞠っては暫くの間考え込んだ夢叶が「もしかして……」と声を上げる。部屋の灯りに反射したイヤーカフが、金糸の透き間からきらめいた。

「漸く気付いたか。土曜のあの晩、お前を現場からこの部屋まで運んだのは神明希人の妖装ようそうである指輪だ。恐らくな。妖装を持ってる奴が、わざわざおんぶや抱っこをして部屋に届けるなんて、面倒なことはしねえからな。妖装は持ち主が望む場所へ一瞬で連れて行ってくれる。一見装飾アクセサリーにしか見えないが、何でも入るし人も運べる」


 ――生命いのちまもるものでありながら、時に生命を壊すものでもある。

 先刻さっき聴いたことを憶い返しては、夢叶が納得するように肯いた。


「ちなみに俺は先刻さっき妖装に入っている間、俺が住んでるマンションの部屋に居た。妖装の中に留まることも可能だが、空間移動も出来る優れものだ。今ので何となくは理解できたと思うが、妖装の中は空洞に見えてそうじゃない。外からえないだけだ。――妖装を持つあるじだけが自由に扱え、出入りできる。そして妖装が気を許した者のみが、妖装を通じて主を呼ぶことができる。先刻さっき夢叶が、俺を呼んだみたいにな」

 夢叶は話を聴きながら髪飾へ眼を向けた。羽ばたくように広がっていた牙はいつの間にか静かに閉じている。

現在いまは、神明希人だけでなく、周囲の人間にも気をつけなきゃならない。何時いつ何が起こっても不思議じゃない、そういう状況だ。そしてお前は誰かを治癒することは出来てもたたかえない。だから身の危険を感じた時、心胸こころの中で俺の名前を呼びながら髪飾をなぞれ」

 解ったな、と念を押す彼に、夢叶がしっかり肯く。「よろしくお願いします」と丁重に頭を下げると、それでいい、綾杜は口角を持ち上げた。


(護られることしかできないなんて情けない……。でも生命いのち懸けで護ってくれた麻子の気持ちを踏みにじることはできない。自分の感情だけで判断して動いちゃ駄目だ。でもこんなことになるんだったらやっぱり――あれ、私何を言ってるんだろう?)


「夢叶?」眉を顰めた綾杜に、「ごめん、ぼうっとしちゃってた」と咄嗟に意識を戻す。

「そう言えば先刻さっき神明希人のことを『湧き上がる怒りのまま、極端な方法で人を傷つけた』って言ったよな?」

 うん、と夢叶が肯く。

「一昨日の土曜、神明希人の眼は何色だった?」

「え、何時もの深緑色と藍色のオッドアイだったけど。それがどうかしたの?」

 それを聞いた綾杜は何かを考えるように、顎に指先を添えた。

「俺も実際には眼にしたことは無いが、九尾の狐ははげしい怒りを覚えた時、その想いがオッドアイに出現あらわれると云われている。それが九尾の狐の弱点だともな。――その時に限り、オッドアイじゃ無くなる。眸の色が両方くれないに染まるらしい。慎君から聞いたことだから間違いない」

 ふと、神秘の森で椿から聴いた話が夢叶の脳裏に浮かんだ。

 ――銀髪の男の子の眸は血のようにあかく、銀の扇を持つ手の薬指に指輪をしていたことは判然はっきりと憶えてる。


「椿君は両親が妖攻された時、明希人君の眼が紅くなってるのを見たって言ってた。でも一昨日は何時ものオッドアイだった……」

 口にしながら、眉を顰め首を捻る。綾杜は顎先から手を離すと、落ち着いた調子で言った。

「つうことはつまり、神明希人は嘘を吐いてたってことになるな」

「じゃあ、あの時本当は怒ってなかった……?」

「そうだ。理由は知らないが、どうやら怒っているふりをしたらしい」

 金色の双眸が揺れる。つい一昨日眼の当たりにした明希人の言動と、たった今綾杜の口から発せられた事実に、夢叶は何方どちらが真実なのか解らず困惑した。


(綾杜君が嘘を吐いているようには見えない。でもだからと言って、明希人君が演じる理由も解らない……)


 一人頭を抱える彼女に、「一昨日の今日だ。無理はするな。気になるなら神秘の森にでも行って、自分の眼で調べてみろ」と言った。大雑把な口調ながらも気遣いを見せる彼に、「ありがとう。そうしてみるね」とほんの少し表情を和らげる。

 神秘の森についても把握していることに胸中で驚いたものの、麻子から聞いたのかもしれないと考えた夢叶はそれについては触れず、前から気になっている疑問をぽろりとこぼした。

「椿君の両親を殺めた時、明希人君はどうして怒っていたんだろう」

「さあな……。だが神明希人のことで、一つ知っていることがある」

 綾杜の声が僅かに硬さを帯びる。急に空気が、重みを増したような気がした。黙ったまま、夢叶が男を見遣る。

「遊馬椿の養父母を殺した同じ日に――神明希人も家族を亡くしている」

「え……」

「父親と母親、そして姉が何者かによって殺された。指導に就いてる者のふだには、何故か犯人不明と表示された――絶対何かある。だが真相は、秘密ベールに包まれたままだ」

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