第8話 恩返し



 鉄扇に流れた雫が冷たい混凝土コンクリートに落ちる。雨に濡れたそこは、黒い斑点模様の染みが幾重いくえにも重なっていた。

 金色とオッドアイの眼差しが無言で交わり、それぞれが全く異なる顔ばせを浮かべている。顎先に触れる尖端せんたんはまるで、氷よりも低温なドライアイスのように感じられ、今にも白い霧が出現あらわれそうであった。暫しの沈黙が流れた後、意味がわからない、と彼女が震え声を上げる。


「明希人君が何を言っているのか、私には解らない……理解できない……」


 眼に映る彼が、同じ皮を被った別の生物いきものに見えた。酷い混乱が彼女を絶望のふちへと誘う。すると少ししてから、明希人は何かに気づいた様子で視線を逸らした。


「流石だな。想像を上回る早さだ」


 横たわる椿へ視線を流し、明希人は顎先から鉄扇を離した。その冷温がふいに途絶えてしまったことに、夢叶が漠然とした不安を覚える。

 明希人はしゃがみ込んでいた身体を起こすと、彼女から背を向け四メートルほど前方へ歩いた。そして再び此方へ振り返ると、夢叶らを見下ろしながら口を開く。


「あと数分足らずで完治、といったところか」


(やっぱり明希人君は、花夢癒はなむゆすべてを知ってるんだ……)


 沸々と湧く焦燥感が、じわりと夢叶をり立てる。明希人の言葉に鼓動が逸るのを感じながら、夢叶も椿へ視線を向けた。すると椿を囲うようにして咲いていた黄色い花弁はなびらが、徐々に散り始めている様子が視界に入る。花の中央にるふっくらとした丸い実が、ほんのりと赤く変化している様が一緒に見えた。


(実が総て赤く染まったら、それは完治したという証。だけど今は完治しても安心できる状況じゃない)


 夢叶が僅かに眉根を寄せていると、「完治したところで、俺に殺されるだけだけどな」と明希人が恐ろしいことを口にする。そんな彼に夢叶が「それならどうして今はただ見ているだけなの? ……貴方にとっては絶好の機会なのに」と苦し紛れの声で訊ねる。すると明希人はふっと吐息に似た笑みをこぼして言った。


「今の椿は夢の中だ。起きてからの方がより絶望を感じられるだろう」


 その言い草に夢叶がひくと肩を揺らす。口からこぼれる息が震えるの感じながら彼をめつけた。


「どうしてそんな酷いことが言えるの……」

「ただ俺が、他の九尾たちよりも残酷だからだろう。化物ばけものだからな」


 平然と話す明希人が悪魔のような怪物にさえ感じられる。夢叶は悲痛な面持ちで憤りを露わにした。「椿君は何もしてない。ただ真実を知りたかっただけ。前に進もうとしてただけだよ……!」


 ——今度明希人君に会って訊こうと思う。どうして僕の両親に酷いことをしたのか。僕にはそれを知る権利がある。夢叶ちゃんが救った男の子たちと同じように、僕も前に進みたいんだ。そのために真実が知りたい。

 神秘の森で聴いた椿の言葉が、夢叶の脳裏を力強く過ぎる。椿が今日どんな想いで明希人に会いに行ったのか、それを考えるだけで胸が引き千切られそうになった。叫びに似た感情を耳にした明希人がため息を吐く。


先刻さっきも話しただろう……俺は怒りのまま両親を殺したと椿に真実を伝えた。だが椿はそんな理由はおかしいと喚き散らししつこく訊いてきた。心底面倒で眼障りな存在だ」

「そんな考え方は間違ってる……どうしたらやめてくれるの?」

「やめない。だが一度だけ夢叶に機会をやる」

「機会……?」

「あぁ。今すぐ椿の治療をやめてここから立ち去るのなら、お前の生命いのちだけは奪わない」


 懸命な夢叶に対し、明希人は淡々とした口調で告げた。それでいて有無を云わせないような威圧感がある。

 機会という言葉を聞いた夢叶は心胸こころからの悲憤ひふんを感じた。より一層増幅した苛烈な感情が、全身に蔓延していくのを肌で感じる。椿の傷口の上にかざしている両手は小刻みに震え、金色の双眸に咲く花は色濃く染まっていた。すると夢叶は冷たい眼を力強く見据えながら大きく口を開いた。


「私は絶対にやめない。そして椿君の生命も自分の生命も諦めない。明希人君を止めることも……自分の心胸に背いて逃げたりしたくない」


 真摯な眼差しを向けられた明希人の双眸が僅かに細められる。眩しそうな眼つきで夢叶を見返した。それから一度長い睫毛を下ろし、冷え冷えとした声で言う。


「そうかよく解った——今日限りでお別れだ、夢叶。お前とはもう恋人でも無ければ友人でも無い。安寧あんねいの夢からもうすぐ醒める男と共に、俺の前から消えうせるといい」


 ――その時、夢叶は背後から何かが迫り来るような悍ましい圧迫感を覚えた。全身がぞっとするように粟立あわだつ。背筋に感じるそれはまるで、全身が黒い鎖で雁字搦がんじがらめにされたような恐怖の暗黒やみであった。額や背中から嫌な汗がしたたる。


(何これ……身体が強張って息が苦しい。身動きができない)


 呼吸が浅く乱れるのを感じながら、咄嗟に椿の容態を確認した。治療はしっかりと続行されており、花に生る実が半分強ほど赤く染まっている様子に僅かながら胸を撫で下ろす。気持ちが恐怖に支配される中、夢叶は何とか背後を確認しようと恐る恐る後ろへ振り返ろうとする――が、そんな彼女の動きを封じるかのようにして、明希人が鉄扇を開いた。そして自身の顔下半分を鉄扇で覆い隠しながら冷ややかに呟く。


天術てんすいつき氷花ひょうか


 唱えられた瞬間。明希人の頭上に大きな円盤が出現あらわれ、その中に氷の結晶が花開く。月のような白い光を放つその氷花は、おぞましいほど冷然でありながらとてもうつくしい。身体が酷く強張る中、それを眼にした金色の眸が揺れた。すると瞬く間に、氷花の中心から鋭い氷柱つららが出現する。それは半透明な儚い光を放っており、氷柱の表面にはぎざぎざとした白い霜の花が幾つも咲いていた。


「さよならだ、夢叶」


 その言葉が合図かとでも言うように、花咲く恐ろしい氷柱が、夢叶へ向かって勢いよく猛進していく。


(身体が動かない。何もできないまま死ぬなんて嫌なのに……こんなことになるんだったらいっそあのとき)



∞ ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ∞


「夢叶――ぶか?」

「——よ——が——から」


∞ ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ∞



(え? っていつのこと?)


 突如茫然ぼんやりとした言葉が脳裏を掠める。ふいに出現れたそれは全く聞き覚えが無いのに、何故か懐かしい感じがした。


(ううん、そんなことよりも今は生命をまもることが最優先。でも動きたくても、身体が石のように硬くて反応しない……このままじゃ本当に)


 鋭利な氷柱が間近に迫る。呼吸することすらままならないまま、その光景をただ見ることしかできない自分に深い絶望の念を抱いた。死の恐怖が差し迫る。額から流れる冷やりとしたそれが、なみだするように頬を伝った。全身が硬直する中、うつくしい花弁を宿す眸に透明な潤いが溢れる。そしてそれがぽろっとこぼれた次の瞬間——光のような速さで、夢叶の眼の前に黒い影が出現れた。


「ま、こ……」


 日頃眼にする艶やかな黒髪が流れるように広がる。夢叶に背を向けながら両腕を眼一杯広げる彼女の動作は、必死に誰かを護ろうとしていた。寸前のところで、夢叶へ向かっていた氷柱を彼女が自分の身体で受け止める。


「麻子っ!」


 夢叶の傍らに堕ちるように、仰向けに彼女が倒れる。麻子の左胸には無情にも鋭い氷柱の尖端が突き刺さっていた。瞬く間に着衣が真っ赤に染まり口から鮮血が溢れる。その姿を眼にした刹那、夢叶は椿の傷口から何とか両手を離そうとした——が、それを止めるようにして赤く染まった口がゆっくりと開く。


「だめよ……夢叶」

「麻子、喋らないで! 今私が」

「助かる生命を、優先して……お願い」


 麻子がごほと赤をこぼす。辺りの混凝土は血溜まりの池と化し、それが夢叶の着衣へと付着した。薄く浅い呼吸をか弱く繰り返しながら、泪に濡れる夢叶へゆっくり話しかける。


「夢叶の力があっても、私はもう、助からない。しん、ぞうに深く、刺さっているから」


 夢叶が何度も首を強く振る。透明な雫がぽたぽたと血の波に沈んだ。


「ごめんね、夢叶……私もね、夢叶とおんなじ、白狐と人間のハーフなの……今まで黙っててごめん」


 息が絶え絶えとしながらも、麻子は話をやめない。椿の傷口にかざしている両手は微かに震えていた。金色の双眸から大きな雫がぽろぽろとこぼれていく——刹那、麻子の身体が淡く光り出した。指先が少しずつ半透明に変化し、そこから宝石のような小さな煌めきが宙へ吸収されるみたいに舞い始める。桃色や黄色、水色といった様々な光を放つそれは、真四角だったり菱形ひしがた模様をしていた。神秘の森で眼にした吉祥の一文が、夢叶の脳裏に警鐘を鳴らすように蘇る。

 ——妖術により殺められた人間や妖狐は光の粒となりこの世から消える。


 ——誠との美術館純粋に楽しんでくる!

 ——そういえば明希人喜んでたよ。最近夢叶が自分から手繋いでくれるようになったって。

 ——明希人は心胸から夢叶のことを大切に想ってる……だからね、不安に想う必要なんて一ミリも無いの。

 つい昨日学食で話した麻子の言葉と明るい笑顔をおもい出す。


「私、夢叶みたいに、生命を救うことはできないけど……素早さが、私の持ち味なの」

「麻子っ……」


 悲痛に満ちた必死な呼び掛けが、煌めきの中に消えていく。既に全身が半透明になりながら、麻子はまた血を吐いた。明らかに苦しい筈なのに、彼女の表情は哀しいほど穏やかで。


「夢叶と、親友になれて、幸せだった……少しは、恩返しができたかな」

「なに、言って」

「ゆめ、き、のう、私が話したことを、絶対に忘れないで、おぼえていて……」

「やだ、麻子」

「ごめん……ね」

「……いや」

「……」

「いやっ――……!」


 夢叶へ言葉を伝えた麻子はゆっくりと瞼を閉じ、一筋の泪を流した。全身から宝石のような光の粒を瞬かせながら、麻子の身体が透明になり消えていく。そんな彼女の表情は眠るように穏やかで優しいものであった。

 物哀しい悲鳴が薄暗い廃墟に轟く。冷え切った赤い混凝土の上で、麻子の総てが光の粒子となり無くなっていく。椿を囲う全ての花の実がきれいな赤に染まると同時に、宙に舞ったうつくしい宝石たちが音も無く消失した。


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