第6話 花夢癒
翌日の土曜日。夢叶は明希人が住むマンションへと向かっていた。夢叶の右腕には、シンプルなベージュの
地面に足を下ろす度に内側を打つ鼓動がじわりと重くなる。あまりいいとは言えない精神状態を唯一、手提から顔を覗かせているお稲荷だけが幾らか彼女の気持ちを和らげようとしてくれた。夢叶の右耳には今日も、明希人が
ふと見上げた夕空は、光線を与える隙を許さないとでも宣告するような
妙な寒気を覚えた夢叶は徐に歩く速度を上げた。それから少しすると聞き慣れた振動音が聞こえ、彼女の足がぴたりと止む。何だろうと思いながらスマートフォンを見ると、それは明希人からの連絡だった。
——悪い。今日会えなくなった。
え、と夢叶が小さな動揺をこぼす。メッセージを見つめる金色の眸は不安定に揺れていた。
(今まで直前になって断られたことなんて一度も無かった。それも理由も無く……こんなことで不安になる私はおかしいのかもしれない。でもすごく嫌な予感がする……)
不安に駆られた夢叶はすぐさま明希人へ電話を掛けた。だか然し明希人が応答する気配はない。繰り返すコール音だけが虚しく鳴り響く。
(こんな
罪悪感と葛藤するも、夢叶は決意を固めた。猫眼をきゅっと瞑り謝罪を述べてから、意志を持って口を開く。
「
唱えたその時、金色の双眸に光の粒子が閃く。泡が弾けるようなきらきらが瞬きながら、凄まじい速度で見える景色が移り変わった。
――
——今度明希人君に会って訊こうと思う。どうして僕の両親に酷いことをしたのか。僕にはそれを知る権利がある。
暗い空から降り始めた小さな雨粒が彼女の頬を濡らす中、その強い意志を持った声が脳裏に響いた——もし耳にしたあの話が事実だったら、危害を加えられるかもしれない。ううん、そんな酷いことを彼がする筈がない——
夢叶が先ほど唱えた言葉は、名前と顔が解っていれば、その人が今何処に居るのかが解る、という妖術だ。
夢叶が途中で唱えた「壱」は、その妖術のレベルを意味する。睛術の場合は壱で、妖術を唱えた本人の現在置から一キロの範囲内を捜すことが出来る。
この妖術は普段治療する時にしか使わないため、今回は前例のないことであった。妖術を使って明希人の居場所を特定するなど初めてのことである。
あまり舗装されていない細道を駆け抜けると、眼の前に背の高い廃工場が
「……つばき、くん……」
もう一人を眼にしたその時。雨音が聞こえなくなり、時が止まったような感覚が彼女を襲った。息が詰まり、唇が小刻みに震える。口からこぼれたか弱い声は本人に届かない。
腹部から血を流し、冷たい
「椿君っ……!」
泣き叫ぶ声が、薄汚れた廃墟に哀しく轟く。肌を刺す冷んやりとした雨滴を跳ね返すかのように、夢叶は椿の元へ足を走らせた。混凝土を踏む音がする度に、湿りを帯びた美しい金糸の髪が揺れる。夢叶の右耳を飾るイヤーカフからは、
「椿君っ!」
全速力で駆け寄った夢叶が、椿の傍にしゃがみ込む。その勢いのせいか、夢叶の右腕に掛けられていた手提は混凝土へ叩きつけられるようにして転げ落ち、半透明の容器がその衝撃から飛び出した。
それを眼にした明希人の深緑色と藍色の眸が、一瞬大きく見開かれる。きつね色の揚げからは彩り豊かなごはんがこぼれ、お稲荷同士が互いを押し合うようにして整然とした列を崩していた。
「椿君、今治療するから! だからもう少し頑張って……!」
自身の名を必死に呼ぶ声と、誰かが駆け寄って来た音を耳にした椿は、動けない痛みを堪えながら薄らと瞼を開ける。するとそこには必死な表情を浮かべる夢叶がいた。椿は驚くものの、突き走る痛みにただ顔を歪める。幸い椿には意識があり、腹部以外からの出血は見当たらない。夢叶が椿のシャツを捲ると、腹部には十センチ近い切り傷が斜めに走っており、激しく出血していた。
(出血が酷い、傷も浅くは無い。一刻も早く治すためには椿君の意識に入る必要がある。でもその間私の現実意識は遮られてしまう……こんなこと考えたくない。自分の眼で見たわけじゃない……でももしこれが明希人君の仕業だとしたら)
恋人を酷く疑う自身の心に、沈鬱な圧迫感が襲い掛かる。まるで空を覆う重々しい雲によって押し潰されるみたいに。
(落ち着いて、ここで私が焦ったら椿君の
しとしとと降り注ぐ雨粒が、夢叶の頬を幾重にも濡らしていく。恐ろしい緊張と雨に打たれ続けているせいか、彼女の手のひらは冷たくなっており微かに震えていた。金色の双眸を閉じ、自身を落ち着かせるようにしてすうっと酸素を取り入れる――束の間、夢叶の瞼が力強く見開かれた。耀う金色の虹彩に、一輪の黄色い花がうつくしく咲き誇る。
「
椿の傷口に両手を当て、意志ある声で唱える。すると冷たい混凝土から、椿を囲うようにして次々と緑が芽吹き始めた。柔らかな光を放つその芽たちはするすると伸びていく。伸びた茎の先に黄色い花を咲かせ、その中央には数十本もの
揺れ霞む視界の中、その光景を見た椿が弱々しくも眼を瞠る。そしてすぐに温かい心地よさに誘われるようにして、優しい夢の世界へと吸い込まれていく——痛みに歪んでいた椿の表情は次第に穏やかなものへと変化し、それ見た夢叶はほっと安堵を浮かべた。淡い光を放出しながら、椿の腹部にある切り傷が少しずつ塞がれていく。
(意識を連結しないで治療した経験があまりなかったから不安だったけど、ちゃんと治り始めてる……)
何時もであれば、夢叶は妖術を唱えると同時に患者の意識の中へと入っていく。患者と自分の意識を連結させることで、より詳細な容態や心胸を診ることができるためだ。その時、夢叶の実体は現実世界にあるものの、意識がない状態となっているため、身の危険が伴う。今回夢叶は、怪我を負わせた相手が明希人かもしれないと疑ったため、意識を連結させての治療を断念したのだった。
「流石だな。賢いやり方だ」
冷ややかな低音が、ふいに彼女の頭上へと落ちる。それは褒めるというよりも、初めから夢叶がそうすることを解っていたかのような口振りであった。夢叶が小さく肩を震わせる。恋人の声に顔を上げることができない。悍ましい恐怖のようなものを彼に抱いてしまう自分に、心胸が真っ二つに引き裂かれるような想いがした。
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