19 吉祥と女神



 神秘の森に一人残った夢叶は、立ち並ぶ書棚の側に置かれていた椅子に腰を掛け、とある書物を開こうとしていた。それは先程から胸に抱きしめていたもので、厚みのある書物だ。装丁の絵柄はぷっくりとした立体感があり。中心にいる狐を囲うようにして彩り豊かな花達が描かれていた。またその美しい装丁はクッション性があり、手のひらに馴染む心地よさがあった。

 夢叶は白銀に染まる書物の小口をぱらぱらと捲った。捲る度にきらりと耀う白銀は、手触りの良い銀糸を想起させる。瞼の裏に一人の存在を憶い浮かべながら、お眼当ての頁へと指を走らせた。


 ——妖術により殺められた人間や妖狐は光の粒となりこの世から消える。殺められた者は死後八分後、他の人間や妖狐の記憶から雲散霧消うんさんむしょうする。然し殺めた者の記憶から消えることはない。また原因は不明だが、記憶が消えない稀な者も中には存在する。


(この記述に当てはめて考えると、殺められたのは椿君のご両親。そして殺めた者は明希人君。そして、記憶が消えない稀な者は椿君が当てはまることになる……椿君の話とこの記述が事実だとしたら、椿君だけでなく、明希人君も椿君のご両親を憶えている筈)


 殺められた者の記憶が、死後八分後に消えてしまうことを、夢叶は祖父から聞いていたため知っていた。子供の頃に初めてそれを聞いたとき、夢叶は大きなショックを受けた――然し殺めた者の記憶からは消えないこと、そして椿君のような記憶が消えない稀な者も存在するということは一切知らなかったため、夢叶は自分の無知さを痛感した。そして同時に知りたいという確かな気持ちが湧き立つ。

 はらり、と次の頁を捲った束の間、夢叶はふと小さな違和感を覚え眉間に皺を作った。改めて文字をよく見ようと膝から書物を持ち上げようとしたその時、ふいに声が掛けられた。


「あれ、月雪さん?」

「風間先生」


 書物から顔を持ち上げる。と、数冊の書物を脇に抱えた風間がひょろりと立っていた。トレードマークの金縁円眼鏡の奥で、涅色くりいろをしたつぶらな眸がぱちと瞬く。


「どうした? 何か元気なく見えるけど」

「いえ、とても元気です」

「そ? ……あ。その書物先生のお気に入りなんだよ。これだけ詳細に載ってるのって珍しいからね。たくさんの書物からこれを見つけた月雪さんは強運の持ち主だ。装丁も超お洒落だしねえ」


 風間は子どものような、好奇心溢れる笑みを浮かべながらそのうつくしい書物を見た。涅色の双眸には賞賛するような尊敬の輝きが溢れている。それはまるで、この書物のことを隅から隅まで熟知しているようなそんな表情にも見えた。


「そういえば最近まで急な雨続きだったけど、あれも実は九尾の狐のせいだったりしてね」

「え?」

「ほら、ちょうどこの頁に書いてあるでしょ?」


 ——特に優れた九尾の狐は、自身が持つ妖術で自在に天候を操ることが出来る。


 風間が向けた視線の先。それはつい先刻、夢叶が捲ったばかりの頁に向けられていた。そんな風間に倣うようにしてその一文へ視線を落とす。そこには記述と共に雨や風、雷といった天候の絵が描かれていた。


 ――ここ一週間ほど断続的な大雨と強風による猛威が局地的に続いていましたが、今週は全国的に安定した晴天が続き気温も上昇する見込みです。


 このあいだ見聞きしたニュースを、ふと夢叶が憶い出す。そして一瞬の躊躇いを見せてから口を開いた。


「逆の可能性も、あると思います」

「え?」

「続いてた悪天候から晴天にしてくれたのが、九尾の狐かもしれないって」


 書物から学ぶ九尾の狐も、椿から聞いた話も事実であれば大変恐ろしいことだ。然し夢叶は九尾の狐や明希人に、恐怖から離れた感情も抱いていた。彼がくれた優しさ総てが偽りだとは思えない。

 不安定な胸中とは反対に、風間を見るその金色の眸に濁りはない。定規できれいな直線を描いたみたいにまっすぐなものだった。そんな彼女に一瞬眼を瞠ってから、風間はうつくしいねと言った。え、と夢叶が訊き返すと「君の心胸だよ。清麗で尊い。まるであのそらに浮かぶ女神みたいにね」と微笑む。

 色模様硝子ステンドガラスの天窓へと視線を持ち上げた風間に倣うようにして、夢叶が顔を持ち上げる。すると澄んだ夕空に浮かぶようにして、背中から白い羽を伸ばしたうつくしい女性が微笑んでいた。風間の言う「女神」という言葉に相応ふさわしく。


「今日もきれいだ」


 呟いた風間の声が神秘の森に優しく溶け込む。女神を見つめる涅色の双眸には、線香花火のような儚い煌めきが静かに宿っていた。そんな風間の表情に夢叶が小さく息を呑む。それは普段眼にする先生ではなかった。


「月雪さん」


 いつの間にか女神から夢叶へと視線を戻した風間がふいに名前を呼んだ。そして筋力が他人ひとよりも不足していそうな華奢な腕を、徐に彼女へ伸ばす。


「ごめん。ちょっとじっとしてて」

「っ」

「ん、取れたね」


 風間の指先が夢叶の金糸へ滑ったのはほんの一瞬の出来事で。つい咄嗟に身体に力が入った夢叶は、風間の指から落ちた糸屑を眼にした途端、変な緊張が解けるのを感じた。

 

「ありがとうございます」

「月雪さんの綺麗な髪には似合わないからね。じゃあ先生はそろそろ仕事に戻るよ。閉館時間迫ってるから、月雪さんもほどほどにして気をつけて帰ってね」


 ひらひらと手を振りながら、軽快な足取りで風間がその場を後にする。学生から慕われる理由を何となく察した夢叶は書物を大人しく閉じ、椅子から立ち上がった。考えなければならないことがたくさんあるせいか、今日は課題に上手く専念できそうにない。

 滑らかな金糸の髪がさらりと揺れながら、右耳にあるイヤーカフが可憐に煌めいた。名残惜しい気持ちを残しつつも、書物を元あった場所へと戻し神秘の森を後にする。頑丈な扉が閉まる音が、床を引き摺るように響いた。


 人気の無い静まり返った神秘の森に、夜の影が天窓に落ちる。暗い中立ち並ぶ書棚は、まるで鬱蒼とする樹海のようであった。するとそんな中、先程まで夢叶が見ていたうつくしい書物の背が、天窓から差し込む僅かな月光に反射しきらと閃く。「吉祥きっしょう」と背の真ん中に記された銀の二文字が露わになり、沈黙に煌めいた。




「麻子、どうかした?」

「ごめんごめん。ちょっと虫がいたから追い払ってた」


 神秘の森で椿から衝撃的な話を聞いた日から一週間が経過した五月上旬。夢叶と麻子は馴染みの学食へと向かっていた。階段を降りている最中にふと隣から麻子がいなくなり、慌てて振り返ると数段上のところから謝りながら麻子が降りてくる。そしてよし決めたと言ってから、今日はヒレカツカレーにしようっと、と笑顔を浮かべながら言う。夢叶はその明るい表情に微笑みながら、どうしようかなと口にした。

 あれから何かが大きく変わったことは何もない。恋人である明希人との関係も。ただ一人になると考えに耽ってしまう時間が増えたのも確かだった。


「——それで実は昨日ね、誠から美術館に行かないかって誘われたの。二人でごはん、なんていうのは何時ものことだけど、改まって誘われるなんて初めてだから何だか気持ちが落ち着かなくて……それも私が前に行きたいって話したことのある展覧会だし。それに誠『お洒落してこいよ』なんて珍しいことも言ったのよ……」


 話し方に勢いがない麻子は非常に珍しい。そもそも注文したごはんが何時もの大盛りではなく、普通盛りであることからしておかしかった。予定通りヒレカツカレーを注文した麻子は食べることよりも、誠のことで頭がいっぱいになっているようだ。そんな珍しい姿を眼にした夢叶は、そわそわとした胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。


「それで、麻子はどう思ったの? ……嬉しかった? 嫌ではなさそうに見えるけど」と訊ねると、麻子は少し気まずそうに眼を逸らしながらもゆっくり肯いた。

「……うん。すごく嬉しかったんだよね。昨日からそればっかり考えちゃって私変なの。それで今日二限前に偶然誠と会った時、何か妙に恥ずかしくて誠の顔が真正面から見れなかったのよね」


 夢叶はササミチーズカツをぱくりと口にしながら、麻子の可愛さに動悸動悸どきどきと鼓動を鳴らした。アイラインが綺麗に引かれた麻子の吊り眼はほんの少し悩ましそうに下がり、頬が微かに赤くなっている。夢叶は一瞬唇を内側に引っ込めてから口を開いた。


「ごめんね。麻子を誘った理由は誠君にしか解らない……でもね麻子、変なんかじゃないよ。焦ったり不安にならなくて大丈夫。素直な自分の気持ちを大切にしていいんだよ」

「……ありがとう夢叶。今まで経験したことのない気持ちだから変に考え過ぎちゃったみたい。誠との美術館、純粋に楽しんでくる!」


 ——麻子のことが好きなんだろう。

 —— はあ、明希人には敵わないな。でもまあ、タイミング見て伝えるつもりだから心配するな。

 以前偶然耳にした会話が脳裏を過ぎる。誠が麻子を誘った理由に気付いていながらも、夢叶はそれについて何も触れなかった。


「そういえば夢叶は明希人とどうなの?」

「どうって何が?」

「そろそろ初キッスしたのかなあって」

「し、してないよ……!」


 何時もの勢いが戻り始めた麻子は、唐突に夢叶へ言葉を投げる。然し夢叶から返ってきた言葉が意外だったのか、麻子は些か納得出来ない様子で眉を顰め、かぶり付くようにヒレカツを口に入れた。さくっとした軽やかな食感が耳に心地良い。


「……でも、ほっぺにならしたよ」

「っていうことはつまり、初キッス目前ってことね! ていうかもう。ほっぺキスで照れる夢叶が可愛すぎて、こっちまで照れちゃう」


 神秘の森での行為を憶い出した夢叶の顔が真っ赤に染まる。ちくりと胸が痛みながらも、同時に幸福な気持ちにもなった。

 頬を赤く染めた夢叶を見た麻子は、口角がゆるゆるといっぱいに弛む。自分のことように喜びながら、カレーをぱくりと頬張った。


「そういえば明希人喜んでたよ。最近夢叶が自分から手繋いでくれるようになったって。一年目も仲良しだったけど、二年目のが熱々ね。明希人からその話を聞いた時。私まで幸せな気持ちになったもの」

「……恥ずかしいけど、私からも素直に触れたいなって想えるようになって……実は明日の土曜の夕方に会う約束をしてるんだけだけどね、明希人君にお稲荷さんを作っていこうと思ってるの。いつも私ばっかり幸せを貰ってるから、明希人君が喜ぶことをしたいなって」


 こつこつと練習に励んだ甲斐もあり、お稲荷が見事上達した夢叶は、明希人に漸くお披露眼できることを嬉しく想うと同時に緊張もしていた。一週間前、神秘の森で夢叶が明希人に言った、「二人きりで話したい」という約束が、遂に明日実行されるためだ。


(自分のことを打ち明けるのはどうしたって緊張もするし不安もある……私の心胸がどこへ向かっていくのか解らなくてとても怖いけど、勇気を出さないといけない時もあるよね)


 いつの間にか表情が硬くなり始めていると、ふいに麻子が大丈夫よと言った。


「不安にならないで大丈夫」

「え……」

「明希人が喜ばない筈が無いもの。甘い顔して笑うのも、とびっきり優しく笑うのも夢叶にだけ。明希人は心胸から夢叶のことを大切に想ってる。何年もあいつの傍に居る私が言うんだから間違いない! だからね、不安に想う必要なんて一ミリも無いの」


 緊張が顔に出てしまっていたのか、麻子は安心させるように夢叶へ告げた。透き通るような温かな声は、夢叶の心胸へ優しく浸透していく。その言葉を胸に刻んだ夢叶は自然な笑みを浮かべながら、ありがとうと親友に感謝した。






 



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