18 キスと〆
長い二本の
徐に立ち上がった椿は、夢叶から距離を置いた。微妙な空間が生まれた相手と更に縮まる恋人との狭間で、彼女は独り身を固くしている。彼は一体何時から
夢叶のすぐ傍へ腰を下ろした明希人は、真正面から彼女を見つめた。白い頬に残る微かな雫を認めてはそっと拭う。肌に触れた指先は何時もと変わらず少し冷んやりしていて、その心地良さに胸の奥が酷い軋みを上げた。
「夢叶、どうした?」
「う、ううん、何でも無いの。眼に埃が入っちゃったみたいで」
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ」
我ながら下手だなと内心で苦笑するも、それ以上追求されないことにほっと胸を撫で下ろす。此方を見つめる二色の双眸に、疑いや不満といった類は見られない。明希人は労わるように透き通る金糸を梳かした。手首にあるシルバーのブレスレットが柔く揺れる。その儚い
(やっぱりどうしても信じられない……それは椿君が言うように、明希人君の良い面しか見えていないから? でもこんなに優しい指先が誰かを殺めるなんて……)
「夢叶?」
ふと、彼女の様子に違和感を覚えた明希人が眉間を顰める。然し恋人の呼び掛けに応じることなく、夢叶は冷たい床へと視線を落とした。男の表情が僅かに凍る。金糸を梳かしていた指先がひたと静止した。心地良い金糸が、
「じゃあ僕はそろそろ帰ろうかな、用事もあるし。夢叶ちゃん、妖狐のことで何かあれば遠慮なく連絡してね」と、不意に
「うん、ありがとう椿君」
控えめに手を振った男は、その三日月眼を夢叶へと向けた。彼女も咄嗟に笑顔を作るものの、やはり僅かに硬い。振り返ることなく離れていく背中を、夢叶が無言のまま見つめる。
(椿君の話が事実だとしたら、明希人君の行いは決して
椿の後ろ姿がついに見えなくなると、現実に引き戻されるように視線を向けた。すると彼の視線は既に恋人へと向けられていて――「夢叶?」
柔らかな指の腹が明希人の頬へ唐突に触れる。迷いなく伸ばされたそれは無意識に程近かった。ふと、
大人しく眼を瞑っている恋人の様子は不思議と幼く、色っぽくも映った。受け身を保持する彼の姿に、
――キスをした瞬間が最期になる。夢叶の隣に俺が居ることは無い。
先日耳にしたそれに、再び胸が疼く。憶い出す度に苦しさを覚えるものの、未だ本人に尋ねることが出来ずにいた。
(唇じゃなくて頬だったら隣にいてくれるのかな……なんて、今こんなことを考える私はどうかしてる。不誠実で卑怯だ)
いまだ体温を味わうように瞼を瞑っている彼は、無防備に
「……あの、明希人君」
「ん?」
「もし私がほっぺにキスをしたら、明希人君をがっかりさせちゃうことになるのかな?」
哀しげに発せられた問いに、男はすぐに返事をすることができなかった。
「眼を開けてもいいか?」と、長いようで短い沈黙を先に破ったのは明希人だった。何故かすぐに自分の眼を働かせようとはしない。
「……ごめん、まだ駄目。今すごく変な顔をしてると思うから」
その声には、後ろめたさや羞恥のようなものが滲み出ている。何よりも自身の哀しみを見せないようにしようという気遣いが、真っ暗な視界にも伝わってきた。夢叶、と明希人が呼ぶ。その低音には何時も
「ひゃっ」。思わず発してしまった色気の無い声に、明希人がくすと口角を持ち上げた。長い睫毛を下ろしたまま笑みをこぼす姿に、夢叶の頬がじわと染まる。
「真っ赤だな」
「どうして……」
「見なくても解る」
彼女の顔に浮かんでいた憂いは、幾分か和らいでいた。刹那、柔肌を慈しむように撫でていた男の手が不意に
「夢叶、哀しいの反対は?」
「……嬉しい?」
「それが俺の答えだ」
男の手が添えられている左頬へ、薄く整った
柔らかな頬からそっと
「
「か、可愛くない」
「いや可愛い……可愛くて仕方がないんだ」
頬の熱を確かめる仕草と蕩けるような響きに、押し黙った彼女の赤みは勢いを増すばかりで。甘美な低音と台詞が、
(やっぱり信じられない……人を殺めたなんて、きっと何かの間違いだよ。こんなに優しい手が
暫くして、左頬を撫でている明希人の手を取った夢叶は、徐に自分のと繋ぎ合わせた。驚いたのか、男の上瞼が小さく反応する。と、今度は夢叶がそっと顔を寄せた。睫毛を伏せながら、桃色の膨らみを明希人の白い頬へと押し当てる。思い掛けないそれに、オッドアイが露わになった。左頬へ感じる確かな熱に堪らず息を呑む。唐突な行為に、明希人の眼元に紅の花が散った。子供がするような口付けに似ているものの、際限のない慈愛に満ちている。
「明希人君と、お揃い」
「……馬鹿」
「ふふ。明希人君大好きだよ」
口付けを贈った夢叶は嬉しそうに頬を緩ませ、ふっくらとした笑みを見せる。二人の左頬には見えない薔薇が咲いていた。互いの
「あのね明希人君」
「何だ?」
「今度改めて明希人君に話したいことがあるの……二人きりで話したい」
(知りたいならただ待ってるだけじゃ駄目だ。怖くても私から打ち明けないと……明希人君のこと、ちゃんと知りたいから)
「解った。今すぐ聞きたい処だが我慢する。その時にちゃんと聞こう」
穏やかな顔で肯いた明希人に夢叶が微笑む。日時は改めて決めることになった。明希人は夢叶の金糸を優しく撫でると、パソコン室で待つ誠との課題作業を進めるため、投げたボールペンを拾い上げてからその場を後にする。頑丈な
――〆
一字のみを誰かへ送信すると、すぐに既読が付いた。「了解」という返信と共に、ゆるキャラのきつねスタンプが画面に浮上する。オッドアイにそれを認めると、再びバッグの中へ戻し、厚みのある
近くにある階段から人の気配を感じた明希人は、漸く誠が待つパソコン室へと足を向かわすのだった。
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