第2章 優しさを見失わないように

第1話 黄色い花咲く待合室



 その頃、夢叶は都内にある病院の待合室に居た。白い仮面マスク越しでもわかる可憐な面貌。背中に流れる滑らかな金糸の髪はおのずと人眼ひとめを惹く。然し本人にその自覚はない。まったく気づかないまま、膝上に広げられている文章を凝視する。

 それはつい最近購入したばかりの料理レシピ本であった。いつになく真面眼まじめな面持ちで頭に叩き込む。すると束の間、捲った頁の上に茫然ぼんやりとした黒い影が出現あらわれた。


「絶品お稲荷さん? 夢叶ちゃん、お稲荷さんが好きなの?」

「つ、椿君?」

「驚かせてごめんね。まさか病院で夢叶ちゃんを見掛けるとはおもわなかったよ。無我夢中で何かを読んでいるみたいだったからつい気になっちゃって」


 椿は爽やかな笑顔を浮かべながら「隣座ってもいい?」と訊く。夢叶がすぐに頷くと、椿は「ありがとう」と言いながらオッドアイを和らげた。

 桃色のビッグスウェットと細身のブルーデニムを合わせた服装は、椿の清爽せいそうな雰囲気をほんのり甘く惹き立たせている。またオッドアイという珍しさもあるせいか、椿も周囲から関心を抱かれていた。


「椿君はどうして病院に? もしかして何処か具合でも悪いの?」


 眉尻を下げた夢叶が、隣に座る男を窺う。すると椿は徐に眼を逸らし、自身が履いているスニーカーへと視線を落とした。


「違うよ。僕は友人のお見舞いに来たんだ」


 ふいに硬くなった声音に息を呑む。異彩な美しさを放つ金色の眸に僅かな緊張が浮き上がった。すると、真下に落としていた視線をゆっくりと持ち上げた椿がゆっくりと口を開く。


「……夢叶ちゃん、今朝のニュース見た? 昨晩アパートの三階から大学生が転落したって……その大学生、実は僕の高校時代の同級生で友人なんだ」

「っ」

「今朝SNSでその情報が回ってきて、それで慌てて病院に駆けつけたんだ……そしたら奇跡的に意識が戻ったところでさ。安心と精神的な疲労感から腰が抜けそうになったよ。……最悪な状況も考えていたから」


 眉尻を下げながら微笑むも、その声は僅かに震えていた。安堵と懸念が入り混じり不安定アンバランスに揺れている。

 椿の話を聴いた夢叶は苦しさで胸が一杯になった。何か言わなければと想うのに、喉につかえて言葉が出ない。微かに口を開くも、無音のままただ小さな呼吸を繰り返す。

 椿は夢叶に何かを求める様子も無いまま、正面の壁に在る「手洗いうがいで生命いのちを守ろう」と書かれた貼紙ポスターを見ながら話を続けた。


「……本当に無事で良かった。左足首の骨折だけで済むなんて奇跡だよ。骨にれも無いみたいだから、手術無しで治療ができるみたいなんだ。頭も強打した筈なのに、頑丈過ぎるな石頭のお陰か、特別脳に損傷や異常も無いみたい」

「……そっか。本当に良かった」


 話すことによって、椿の心胸こころは少しずつ安定バランスの良い円を描き始めているみたいだった。先刻さっきよりも柔らかくなった雰囲気に、夢叶もほっと安堵を浮かべる。椿は夢叶へ顔を向けながら話を続けた。


「その友達、莉子りこって言うんだけどね。莉子が言うにはベランダから過って身体を乗り出したらしいんだ。何を機掛きっかけにそんなことになったのかは自分でもわからないみたいでね……困ったことに、莉子はかなりの酒豪で有名なんだ。朧気おぼろげな記憶らしいけど昨晩も何処かで飲んでいたらしいから、酔っ払いの度が過ぎた不注意が原因かもしれないけど……本当に困った友人だよ」


 瞼の裏にオッドアイを隠しながら、ふうと細長い吐息をこぼす。その声は先刻より明るいものの、膝上に乗せられている拳には力が入っており微かに震えていた。


「一人で飲んでいたのか、それとも誰かと一緒だったのかどうか、莉子はまるでおぼえていないみたいでさ……でもとにかく、無事で良かったよ本当に」


 安堵するように出現れた椿のオッドアイを夢叶が横から見つめる。そして安らぎを与えるように仄かな微笑みを浮かべた。


「莉子さんが回復して良かった……左足首も回復して、早く日常生活に戻れるといいね」

「うん、ありがとう夢叶ちゃん。そういえば夢叶ちゃんはどうして病院にいるの?」

「実はその、風邪を引いちゃって」


 椿の問い掛けに、ほんのちょっと躊躇いを見せた夢叶が視線を逸らした。細々とした声で答えた夢叶を椿が気遣うように窺う。


「それは心配だ。風邪って長引くと辛いからね。もう診察はして貰ったの?」

「うん。先刻お薬も貰ったから大丈夫だよ。ありがとう」


 膝上に置かれている開かれたままの料理本へ視線を送りながら、些か早めの口調でお礼を伝えた。すると金色の視線の先へ誘われた椿が、穏やかな笑みを乗せながら尋ねる。


「そういえばさっきの話に戻るけど、夢叶ちゃんてお稲荷さんが好きなの?」

「え? あ、うん好きだよ。……実はお稲荷さんは明希人君の一番好きな食べ物なんだ。だから美味しいお稲荷さんを作れるようになりたくて」


 耳朶に微かな薔薇色を浮かべながらはにかむ。仮面越しからでも解る可愛らしい微笑みに、オッドアイが微かに揺らいだ。まるで明希人を見つめるみたいに料理本を覗く夢叶に妙な侘しさを覚える。そして眉間を顰めた。が、またすぐに柔和な三日月眼をつくりながら口許に笑みを乗せた。


「夢叶ちゃんは本当に明希人君のことが好きなんだね」


 金糸から覗く白い耳朶がじゅわりと色付き首筋へ広がる。一人あたふたしながらも無言で俯く様は明らかな肯定を意味していた。


「それにしても明希人君の幻像イメージにぴったりだなあ。お稲荷さん」

「え?」

「お稲荷さんを食べる明希人君、何だかしっくりくるなって。あ、もし良かったら僕が夢叶ちゃんに作り方教えようか?」

「椿君、お料理が得意なの?」

「うん。特に和食は得意なんだ。話を聞いてくれたお礼に夢叶ちゃんに何かしてあげたいなと想って。どうかな?」


 二色の双眸が柔らかく光る。その異なる色を見る度に、心胸の真ん中に居る彼が憶い浮かぶ。それはまるで花弁はなびらが開くような優しさに満ちていた。そしてふと違和感を抱く——笑っているのに、椿の眼は深海ふかうみに沈むようにも見える。と、夢叶は何故かそう想った。爽快なあおと深海が何処までも水平に並んでいる。それから夢叶は首を振って微笑んだ。


「ありがとう椿君。だけど気持ちだけ有り難く貰っておくね。自信は無いけど自分の力で頑張ってみたいの」


 迷いや揺れを知らない、真っ直ぐな金色の眸に椿が息を呑む。じわり、と仄かに浮かんだ熱を瞼の裏にかくしたあと、椿は爽やかな笑みを作った。


「じゃあ僕は全力で応援するよ。でももし手伝って欲しいことがあったら、その時は遠慮なく頼ってね」


 頼もしい言葉に夢叶が頷く。嬉しそうに料理本へ視線を戻した夢叶を、笑みを潜ませた面で椿は凝然じっと見つめた。

 艶めく飴玉を縁取る柔らかな睫毛。背に流れる金の絹糸。それは穢れを知らない清らかな天使のよう——無意識に眼を奪われていた。それは喉奥がじりと焼けるような痛みが感じられるほど、彼女をうつくしいと想った。


「……羨ましいな」

「え?」


 小さなそれを判然はっきりと聞き取れなかった夢叶が首を傾げる。


「夢叶ちゃんて明希人君のどこがそんなに好きなの? 容姿? それとも性格?」


 唐突に投げられた質問に金色の眸が瞠る。然し迷うことなくすぐに口を開いた。


「全部だよ。明希人君の全部が好き」


 はっきりとした嘘偽りの無い声にオッドアイが揺れる。それ以上波打つ感情を面に出さ無いよう努めながら、椿は再び尋ねた。


「一年付き合ってみてここが嫌だなとか、幻滅したことはなかったの?」

「……もちろん不安が無い訳じゃないよ。でも明希人君のことを嫌に想う日なんて、これまで一度もなかったよ」


 仮面越しからでも解る明確な微笑みに、椿は足が竦むような感覚を覚える。そして躊躇うように間を開けてから打ち明けるように言った。


「……実は僕、見ちゃったんだ。昨日の朝駅前で、莉子が明希人君に言い寄る姿を」


 金色の眸が大きく揺らめく。そこにはただ純粋な驚きが浮かんでいた。そんな夢叶を窺いながら話を続ける。


「もちろん明希人君は、微塵みじんも動じることなく断ってたよ。誘惑に動じない姿を紳士だと感じる人もいるだろう。でも僕は、明希人君の言動が冷た過ぎる気がしたんだ。それは莉子が僕の友人ということもあって、過敏になっていたのかもしれない……でも時々、大学内でも似たような光景を目にすることがある。氷のような冷たさで、自分に好意を抱く相手を容赦なく遮断する明希人君を。そんな恋人を夢叶ちゃんはどう想ってるのかなって、実は前から気になってた」


「こんなこと訊いてごめん」と申し訳無さそうに謝る椿に、夢叶は黙ったまま首を振った。

 彼女の表情に嫌悪はほんの少しも見当たらない。困ったようにする訳でも無く、ただ真剣に耳を傾ける姿だけがあった。そんな夢叶に一種の驚きを覚えていると彼女の口がゆっくりと動き始める。


「冷た過ぎるって想う気持ちは、私にも理解できる。明希人君の言動は、万人から認められるものでは無いって。でもね、氷のような冷たさの中にも優しさはあるの。それは期待させないようにとか、私が不安にならないようにとか……もちろん、明希人君や私のことを良く想ってない人がいるのも知ってる。でもだからこそ、私は明希人君の優しさを見失わないようにしたいの」


 煌めく強い光と黒い影が椿の脳裏を酷く射した。全身が圧迫されるような苦しさを覚え、排出するように吐息をこぼす。


「……やっぱり、明希人君が羨ましいよ」

「え?」

「明希人君よりも先に見つけていたら、僕にも別の機会チャンスがあったのかな」


 金色の眸が困惑に揺れる。違和感を抱き始めた夢叶は、料理本を強く胸に押し当て、椿から離れるように僅かに身体を浮かせようとした、


「椿君?」


 が、徐に夢叶へと指先を伸ばす。二色の力強い眼差しに、思いがけず夢叶の身体が強張った。まるで現実では無い異空間に居るような感覚が身体を支配する——椿の指先が滑らかな金糸へと触れる直前。よく知る香りが夢叶を包んだ。


「夢叶」

「明希人、くん?」


 いつの間にか背後に居た明希人の腕に、夢叶は肩を抱かれていた。椿が伸ばした指先は一ミリも届くことなく、虚しそうに宙だけを掠める。


「……残念だな。今ちょっといいところだったのに」

「悪いが俺の心胸は広く無いからな。それよりも夢叶、身体は大丈夫か?」


 目の前にいる椿へ感情の無い声を出したあと、明希人は心配そうな眼差しを恋人かのじょへと向けた。病院に居るという連絡を入れていたことを憶い出した夢叶が、はっとした様子で口を開く。


「う、うん! 少し熱があるだけだよ。ごめんね心配掛けて」

「好きな女の心配をするのは当然だ。謝るな」


 優しく寄り添う美しい横顔、すぐに後ろに感じる彼の温もり。それら総てに反応した夢叶の白肌が淡い薔薇色へと変身した。


「堂々と見せつけちゃって狡いなあ……あ、僕の名前は遊馬椿。よろしくね明希人君」


 紡がれた自己紹介に、それぞれのオッドアイが一直線に交わる。然しそれは一瞬で、明希人はさらりと椿の視線を流した。


「直接話すのは初めてだが知っている。そしてよろしくするつもりは無い」

「……うわあ。ちょっと夢叶ちゃんと話してただけなのに敵視し過ぎじゃない?」

「俺は心胸が狭いからな。彼氏がいる女に付け込もうとする男と仲良くする気にはなれない」

「嫌だな、ただ友達として仲良くしたいと想ってるだけなのに……はあ、これ以上ここに居ると頭痛がしてきそうだからもう行くよ。これ以上お邪魔虫にはなりたく無いからね」


 深い溜息をこぼした椿は爽やかな笑顔を残してその場を後にした。夢叶は慌てて椿に会釈するも、明希人は椿を見る素振りもすることなく空いた席へと腰を掛ける。

 異彩な存在感と稀有な美貌を持った新たな男の登場に、待合室に居る女性陣が密やかに黄色い声を上げた。


「あの、勘違いさせちゃったならごめんね。でも私、椿君に付け込まれるようなことはされて無いから安心してね」


 本心である以上に、心配を掛けないよう言ってくれていることが明希人には解っていた。そんな恋人かのじょの頭をそっと撫でる。すると明希人は何かに気付いた様子で、夢叶の腕にあるものへ視線を向けた。


「料理本?」

「あ、実はお稲荷さんの作り方を読んでて」


 その言葉に、明希人は先日夢叶が頑張ると張り切っていた様子を憶い出した。彼女の健気な姿に男の眼元が微かに赤く染まる。然しすぐさまそれを取り払うように明希人は口を開いた。


「嬉しいがあまり無理はするな」

「ふふ。やっぱり明希人君が一番のお薬だ」

「……どういう意味だ?」


 にこにことする夢叶に首を傾げる。すると夢叶は美しいオッドアイを見つめながら柔らかな言葉を紡いだ。


「何かを通して明希人君に会えた瞬間にも、私は元気をもらってるの。だからね、お稲荷さんの作り方を勉強してる時も、私にとってはすごく幸せな時間なんだよ。明希人君は何時も私に素敵なものをくれるの」


 花が綻ぶような想いに、オッドアイが微かに揺れる。夢叶の言葉に、そして仮面越しからでも解る愛らしい表情に、明希人の鼓動が強い音を立てた。

 眩い光りでも浴びたかのように、明希人がうつくしいオッドアイを秘す。そして再び瞼を開いてはゆるりと口角を持ち上げた。その微笑みに、夢叶は煌めく眸を和らげるのだった。





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