5  黒猫の名前は「ユア」



「今日はこのまま、俺の部屋にきて泊まるといい」

「駄目だよ。明希人君に風邪移したくないもの」


 病院をあとにした二人は、ゆっくりとした足取りで帰路へ向かっていた。夢叶が住んでいるアパートよりも、明希人が住むマンションの方が近いため当然あたりまえのように提案するも、夢叶がきっぱりと首を振る。そして夢叶は「このまま自分の部屋に帰るね」と言った。隣を歩く男が二色の双眸を僅かに細める。


「一緒にいたいと想う俺の気持ちは迷惑かか?」

「え、ううん! そんなわけないよ」

「だったら遠慮するな。俺の部屋でゆっくり休めばいい。その方が俺も安心できる」


 上手く誘導されているような気がしながらも、言い逃れる術を見つけることができそうになかった夢叶は頷いた。


「……ありがとう明希人君。もし移っちゃったらごめんね。でもそのときは私が全力で看病するからね」

「ふ、解った。その時は夢叶に甘えさせてもらう」


 白い歯を覗かせながら明希人は微笑んだ。肯定の返事に、夢叶がほっと柔らかな表情を浮かべる。

 然し発した言葉とは裏腹に、男は胸中で彼女に拒絶した。どろりと粘りつくその感情を、明希人は決して夢叶に見せない。悠然とした笑みを浮かべながら彼女の横顔を見つめる。

 しばらくして二人は、沢山の人が行き交う交差点で一度歩みを止めた。赤に光る歩行者信号機の上では、高層ビルに貼り付く巨大な画面スクリーンが、眼紛めまぐるしく変化している。


「夢叶。何か欲しいものはあるか?」

「欲しいもの?」


 画面を何気なく眺めていた夢叶は、隣から掛けられた質問に眼を瞬かせた。


「一年記念日に何か贈りたいんだが」

「嬉しい。でも私は明希人君と一緒に過ごせることが一番嬉しいから、欲しいものは何もないよ」

「……そうか」


 隣からこっそり彼氏の横顔を盗み見た夢叶は、小さな微笑みを浮かべた。眼元がほんのりと赤くなっている。よく見なければ気付かないその変化は、夢叶だけの嬉しい秘めごとである。


「明希人君こそ何か欲しいものはある? 私の方こそ何か贈物プレゼントしたいな」

「無い。夢叶以外に欲しいものは何も無いからな」


 歩行者信号機が青へと変化した途端。明希人は再び当然の如く告げた。白い仮面ますくの中に、真っ赤な熱を閉じ込めている夢叶を一瞥する。小さな手のひらを包みながら、明希人は一緒に歩き出した。


「……私は明希人君のだよ。今も、そしてこれからも」


 行き交う人混みの中。微かに震える唇からこぼれた音は、漏れることなく明希人の耳へ届いた。オッドアイの奥が、じりと苦しそうに焦げる。堪えるように唇を噛んだ、返事はしなかった。


「贈物はともかく、して欲しいことは何かあるか?」


 忙しなく行き交う人混みから抜け、閑静な住宅街へ入ると、明希人は再び問い掛けた。

 実を言えば、とっくに明希人は贈物を用意していたが、それとは別に、夢叶が望むことを叶えてやりたいと想っていた。

 沈黙を続けながらも、微かに変化した夢叶の表情を見逃すことは決して無い。明希人はそれ以上問うことなく、静かに待ち続けた。すると暫くして、躊躇うように夢叶が小さく口を開ける。


「一つ、だけ。でも口で言うのは恥ずかしいから、記念日の当日に手紙で伝えるね」

「……そうか。楽しみにしてる」


 オッドアイがふわりと優しく和らぐ。すると今度は夢叶が明希人へ問い掛けた。


「明希人君は? 私も明希人君の願いごと叶えたい」

「……もう十分過ぎるくらい叶ってる。だから願いごとは無い」


 明希人は夢叶を見ることなくそう言った。横から窺う明希人の表情は美しく、澄ましたオッドアイは神秘的な光を放っている。けれどその眸の奥底に鈍いかげを宿したことに夢叶は気付いていた。


(明希人君の本心にもっと近づきたい。キスをしたら、明希人君の大切なところに少しでも触れられるのかな……)


 そんなことを考えながら、夢叶の視線は何時の間にか、明希人の薄い唇へと向かっていた。整った下唇の斜め下には小さな黒子があり、見てはいけないような色気が漂っている。


「口に、何か付いているのか?」

「え、ううん! 何にも付いてないよ」


 凝然じっと見つめていたことに漸く気付いた夢叶は、一人羞恥を抱きながら慌てて首を振るのだった。



「……熱は下がったみたいだな」


 ほっとした様子で明希人は柔い吐息をこぼした。あれから明希人が一人暮らしをしているマンションに訪れた夢叶は、明希人の部屋に置かせてもらっている部屋着へと着替え横になり、少しずつ広がる甘い匂いに誘われるようにして眠りの世界へと入っていった。

 モノトーンのベッドで静かに寝息を立てる夢叶を、明希人が凝然じっと見つめる。片肘を突き、自身の頭を支えながら、明希人は夢叶の傍で身体を伸ばした。空いている片方の手のひらで、夢叶の頬を包み込むようにするりと撫でる。それが気持ち良かったのか、夢叶の口角が無防備に持ち上がった。

 ふっくらとした唇が誘うように小さな隙間を覗かせている。すると、そんな恋人かのじょへ意識が吸い込まれるようにして、微かに睫毛を下ろしながらその距離を縮めていく——十センチ、八センチ——刹那、明希人は伏せていた長い睫毛を持ち上げると、それに触れることなく距離を戻した。


「どうした? ユア」


 夢叶との距離が広がったその時。ベッドへ飛び乗ってきた黒猫が、明希人の胸元へ「ミャア」と鳴きながら擦り寄る。


「……静かに。夢叶が起きる」


 薄い唇に、明希人は自身の人さし指を当てると、ユアはサファイアブルーの眼をぱちぱちさせながら体を丸め、大人しく瞼を閉じた。ふわりとした柔らかな被毛ひもうぬくもりを感じながら、明希人の意識が一年前へとさかのぼっていく。



∞ ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ∞



「私の名前と明希人君の名前の頭文字を合わせて、ユアって名前はどうかな?」


 痩せ細っている黒猫を優しく胸に抱いた夢叶は、閃いた様子で提案した。思い掛けない言葉にオッドアイが瞠る。すっと息を呑んだ明希人に、夢叶は眼映まばゆい笑顔で話を続けた。


「だって一緒に成長を見守りながら育てるんだもん。だからお互いの名前を組み合わせるのが一番しっくりくるなって想ったの」


 金色の眸をきらきらと輝かせながら、夢叶はユアに頬擦りした。そんな夢叶とユアをオッドアイに映した明希人は、心臓が鷲掴みされたみたく、ぎゅっと深いところが締めつけられるのだった。



∞ ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ∞




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