2  もう一人の有名人は爽やかに笑う


 午前の講義を受け終えた夢叶は親友と学食に居た。賑やかな音色と食欲誘う匂いが、彼方此方あちこちから充満している。


「そういえば夢叶と明希人が付き合い始めて、もう一年が経つのね」


 夢叶の正面に座る葛木麻子かつらぎまこが、唐揚げを頬張りながら懐かしむように言う。人眼ひとめを気にせず大きな口を開けて食べる姿を、夢叶が微笑ましい気持ちで眺める。昼休みを学食で過ごすのは二人の習慣ルーティンであった。

 麻子は唐揚げ定食。夢叶はビーフカレー。二人ともごはんは大盛りだ。華奢な身体からは想像もできないが、ごはん大盛りは二人のお決まりだった。

 麻子、夢叶、そして明希人の三人は、歴史学部に通う大学二年生である。


「ねえ夢叶、ちょっと……」


 ふと、麻子が食べる手をめ、音を立てずに箸を置いた。小さく首を傾げる夢叶の方へ身を乗り出すと、艶のある長い黒髪がさらりと揺れる。髪と同じ色をした黒い眸には、何処か落ち着きの無い興奮が灯っていた。


「一年記念日ってことはさ、夢叶にもようやくその時が訪れるってことよね?」

「え?」


 言葉の意図がわからず首をひねる。きょとんとした面持ちでカレーを口へ運んだ。食欲に忠実な態度を焦ったく感じたのか、麻子が些か声音を強める。


「だから、えっちのことに決まってるでしょ」


 金色の猫眼が固まる。咀嚼するみたいに時間を置いては、急に頬が赤く染まる。持っていたスプーンがするりと手から滑り落ち、ビーフカレーが盛られた皿へ細やかな音を響かせながら無造作に着地した。


「い、今はお昼ごはんの時間なのに」

「何言ってるの。話すのに昼も夜も関係ないでしょ? ていうかごめん。順番間違えたわ。まずは初チュウよね。それから……」

「ちょ、ちょっとストップ!」

「もう何照れてるのよ。夢叶ってば純情ピュアなんだから。ていうかもう夢叶からチュウしてあげれば? 明希人、感激して泣くんじゃない?」


 茹蛸ゆでだこ状態の夢叶を気にする素振りも無いまま単刀直入ストレートに続ける。そして再び大きな口を開けてはむしゃむしゃと唐揚げを食べ始めた。

 聞こえているんじゃないかと周囲が気になったものの、今の夢叶に確認する余裕は無い。唐突にそんなことを言われたせいか、明希人の整った薄い唇がふとおもい浮かんだ。真っ赤な頬を懸命にあおいでは、皿に落ちたスプーンを取りカレーを口の中へ運ぶ。親しみのある香りにほんの少しほっとした。


「ま、今のは半分冗談よ。二人の気持ちが一番大事だもの。でもさ、薬指にしてる指輪のことは訊かないままでいいの? 気になってるんでしょ?」


 今朝見た光景が反芻する。明希人の薬指に光る指輪は出会った頃から気になっていた。それは薬指に在るから気になるのか。それとも明希人が唯一身に付けるアクセサリーだから気になるのか――きっとその両方だろうと夢叶は思った。そしてその理由は今後更に増えるのかもしれないとも。


「凄く気になる。だけど訊かない」

「いいの?」

「うん。前にね、明希人君が指輪のことを友達に話してるのを耳にしたことがあって」

「え、そうなの?」

「うん。『この指輪は自分の生命いのちより大切なものなんだ』って。その声が何故か私には哀しそうに聞こえたの……ほら、あまり話たくないことって人それぞれきっとあるでしょう? だからね、訊かないんだ」


 ぽつりぽつりとこぼれる声には、複雑な心情が絡んでいた。自分より他人ひとおもんばかる夢叶の性質を麻子はよく知っている。そんな夢叶が大好きであり、見習いたいと思うところでもあり、危惧しているところでもあった。口を噤み、箸を置いた麻子がふうと吐息をこぼす。


「解った。夢叶がそう決めたのなら私は何も言わない。そもそも明希人は夢叶一筋だから、他に女なんて居る訳無いし。その点は心配無用よね」

「ありがとう。でも私の方が明希人君に一途だよ」

「もう、すぐに惚気るんだから。でも夢叶のそういうところ好きよ」


 ふふっと二人して似たような笑みを浮かべる。麻子のつり眼が柔かな皺を作った。

 二人は大学に入学してからすぐに仲良くなり、あっという間に親友になった。そんな夢叶と麻子は「女神二人組」、と大学内で呼ばれている。然しそう呼ばれている事実を、本人達は未だに認識せず過ごしていた。


「よし! お腹も美味しく満たされたことだし、午後も頑張りますか」

「うん! 午後は麻子と講義が被ってるからもっと頑張れちゃう」


 同時に席から立ち上がり、綺麗に平らげた皿をトレーに乗せ席を立つ――と、背後の人影に気付かなかった夢叶の背中が誰かと打突ぶつかる。思いがけない衝撃に驚いた夢叶は、トレーを慌ててテーブルへ下ろしては急いで振り返った。


「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」

「ううん。僕の方こそごめんね。ちゃんと前を見てなかった僕が悪い。怪我はない?」


 勢いよく頭を下げて謝る。と、相手の男は穏やかな声で夢叶を気遣った。男の透き通った声に釣られる様におもてを上げると、爽やかな面貌が視界に入り込む。真正面に立つ爽やかな青年の双眸と、金色の眸が静かに重なった。


(あ、色は違うけど明希人君と同じだ)


 右眼は鶯色うぐいすいろ。左眼は青紫色に塗られたうつくしいオッドアイが、夢叶の瞳孔に映り込む。


「どうかした?」

「あっ、いえ、ごめんなさい」


 ゆるりと首を傾げる男に意識が引き戻される。無意識にオッドアイを見つめていたことにようやく気付き、恥ずかしさが顔を出す。男の頬がふわりとゆるんだ。


「月雪夢叶ちゃん、だよね? 同い年だし、そんなにかしこまらないで大丈夫だよ」


 眼の前にいる男が自分の名前を知っていることに驚きをかくせず、ぱちりと猫眼を瞬かせる。その素直な反応に男は眼を細めて笑った。

 明希人よりは低いものの、百八十に届きそうな身長に加え、小さな顔に整った目鼻立ちをしている。さらさらと靡く短髪の黒髪にしても、爽やかな好青年という言葉がぴったり当てはまる風貌だ。


「あの、どうして私の名前を……?」

「どうしてもなにも夢叶ちゃんは有名な女の子だから知ってるよ。それにあの明希人君の彼女なんだから」


 朗らかな表情のままさらりと言った。明希人と異なる色をしたオッドアイはやや垂れ眼で、優しさが滲み出ている。


「あ、ちなみに俺も歴史学部だから。夢叶ちゃんと一緒だよ。授業も幾つか被ってるんだけどなあ」

「ご、ごめんなさい。存じ上げなくて」

「あは、ごめん。責めるつもりで言った訳じゃないから気にしないで。ていうかそんなことより敬語はもう無し、ね?」


 柔和な三日月眼を浮かべた爽やかな顔ばせに夢叶がこくりとうなずく。明希人と、明希人の親友以外の男とあまり話すことの無い夢叶にとって、この状況は極めて珍しいものであった。


「僕の名前は遊馬椿あすまつばき。これも何かの縁だし、これからよろしくね夢叶ちゃん。僕のことも気軽に名前で呼んでいいからね」

「椿、君」


 躊躇いながらもそう呼ぶと、嬉しかったのか、椿はゆるりと口角を持ち上げた。そんな二人のやりとりをやや離れたところから見ていた男が、揶揄からかい混じりの声を飛ばす。


「おい椿。何女神といちゃいちゃしてんだ。彼氏に見られたら大変だぞ」

「……女神?」

「あは、無自覚なところも可愛いね。もう少しお話したいところだけどもう行かなくちゃ。じゃあまたね夢叶ちゃん」


 にこっと爽快な笑顔を浮かべた椿は、ひらりと手を振りながらその場を後にする。夢叶はそんな椿に応えるようにして慌てて小さな手を持ち上げるのだった。


「もう、なあに凝然じっと見つめちゃって。浮気してたって明希人に報告しちゃうわよ?」

「え、そんなことしないよ。ただ明希人君以外で、オッドアイの人を見たのが初めてだったから気になっちゃって」


 夢叶と椿の会話を近くで観察していた麻子が、にやりと愉しそうな笑みを浮かべた。冗談である麻子の言葉に夢叶が真面眼まじめな顔をして否定する。その純粋ピュアな反応を可愛く思いながら、夢叶の言うオッドアイ二人を憶い浮かべた。


「確かに明希人も椿もオッドアイね。性格は天と地ほど離れてるけど」

「あれ、麻子は椿君と知り合いなの?」

「うん。一年の時、語学の履修科目がおんなじだったのよ。挨拶程度には知り合いね」

「そうなんだ。私は今日初めて椿君のことを知ったよ」


 トレーに乗った食器を返却コーナーへ運びながら麻子が口を開いた。


「椿を知らないなんて夢叶くらいよ。私は全くタイプじゃないけど、女の子からかなりモテるんだから。同性からも好かれてて男友達も多いし」

「そっか。そんなに有名な人なんだね」


 何時も明希人のことばかり見ているせいか、夢叶は同学年の男子を殆ど知らない。食器を返却し終えた夢叶は、明希人の存在の大きさを改めて実感し耳朶をほんのりと赤らめた。学食から外へと続くドアを麻子が押し開ける。新鮮な空気が二人を包み込んだ。


「まあ、明希人の有名さには敵わないけどね」


 二人の視界には雲一つ無い爽やかな蒼空あおぞらが広がり、学生達の笑い声が行き交っている。そんな学生たちの輪へ溶け込みながら午後の講義へと向かうのだった。


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