第2話 もう一人の有名人は爽やかに笑う



 午前の講義を受け終えた夢叶は親友と学食に居た。賑やかな音色と食欲誘う匂いが、彼方此方あちこちから充満している。


「そういえばもう、夢叶と明希人が付き合って一年も経つのね」


 夢叶の正面に座る葛木麻子かつらぎまこは、唐揚げをカリッと頬張りながら懐かしむように言った。人眼ひとめを気にせず大きな口を開けて食べる姿を、夢叶が微笑ましい気持ちで眺める。昼休みを学食で過ごすのは二人の習慣ルーティンであった。

 麻子は唐揚げ定食。夢叶はビーフカレー。ちなみに二人のごはんは大盛りだ。華奢な身体からは想像もできないが、ごはん大盛りは二人のお決まりだった。

 麻子、夢叶、そして明希人の三人は、歴史学部に通う大学二年生である。


「ねえ夢叶、ちょっと……」


 突然麻子が食べる手を止め、音を立てずに箸を置いた。声量を落としながら軽く夢叶の方へ身を乗り出すと、艶のある長い黒髪がさらりと揺れる。髪と同じ色をした黒い眸には、落ち着きの無い妙な興奮が出現あらわれていた。


「一年記念日ってことはさ、夢叶にもようやくその時が訪れるってことよね?」

「え?」


 言葉の意図がわからず、首をひねりながらきょとんとした面持ちでカレーを口へと運んだ。食欲に忠実である。すると麻子はその態度を焦ったく想ったらしく、能天気に頬張る親友に些か声を強めた。


「だ、か、ら、えっちのことに決まってるでしょ」


 唐突に投げられた三文字に、金色の眸が固まる。五秒程置いて理解したその時。持っていたスプーンが手からするり滑り落ち、ビーフカレーが盛られた皿へカチャンと音を響かせながら無造作に着地した。


「ま、まだお昼だよ」

「話すのに昼も夜も関係ないでしょ? ていうかごめん。順番間違えたわ。まずは初チュウよね。それから……」

「ちょ、ちょっとストップ!」

「もう何照れてるのよ。夢叶ってば純情ピュアなんだから。ていうかもう、夢叶からチュウしてあげれば? 明希人、感激して泣くんじゃない?」


 茹蛸ゆでだこ状態の夢叶を気にする素振りも無いまま麻子が単刀直入ストレートに言う。そして再び大きな口を開けてはむしゃむしゃと唐揚げを食べ始めた。

 聞こえていないかと周囲が気になったが、気にする余裕は残念ながらない。そして急にそんなことを言われたせいか、明希人の整った薄い唇がふと憶い浮かぶ。

 真っ赤な頬を一生懸命手であおいだ夢叶は、皿に落ちたスプーンを手に取りカレーを口の中へと運んだ。知っている香りにほんの少しほっとする。


「ま、今のは半分冗談よ。二人の気持ちが一番大切だもの。でもさ、薬指にしてる指輪のことは訊かないままでいいの? 気になってるんでしょ?」


 今朝見た光景が反芻する。明希人の薬指に光る指輪は出会った頃から気になっていた。それは薬指に在るからこそ気になるのか。それとも明希人が唯一身に付けるアクセサリーだから気になるのか——きっとその両方だろうと夢叶は思った。そしてその理由は今後更に増えるのかもしれない、とも。


「凄く気になる。だけど訊かない」

「……いいの?」

「うん。前にね、明希人君が指輪のことを友達に話してるのを耳にしたことがあって」

「え、そうなの?」

「うん。『この指輪は自分の生命いのちより大切なものなんだ』って。その声が何故か私には哀しそうに聞こえたの……ほら、あまり話たくないことって人それぞれきっとあるでしょう? だからね、訊かないんだ」


 ぽつりぽつりとこぼれる声には、複雑な心情が絡み合っていた。自分より他人ひとおもんばかる夢叶の性質を麻子はよく知っている。そんな夢叶が大好きであり、見習いたいと想うところでもあり、そして危惧しているところでもあった。

 一度箸を置いた麻子が仕方なさそうに吐息をこぼす。


「解った。夢叶がそう決めたのなら私は何も言わない。あの銀髪シルバー野郎は夢叶一筋だから他に女なんて居る訳無いし。その点は心配無用よね」

「ありがとう。でも私の方が明希人君に一途だよ」

「もうすぐ惚気るんだから。でも夢叶のそういうところ好きよ」


 ふふっと二人して似たような笑みを浮かべる。麻子の吊り目が柔かな皺をつくった。

 二人は大学に入学してからすぐに仲良くなり、あっという間に親友になった。そんな夢叶と麻子は「女神二人組」として大学内で囁かれている。然しそう呼ばれている事実を本人達が認識していないこともまた事実であった。


「よし! お腹も美味しく満たされたことだし、午後も頑張りますか」

「うん! 午後は麻子と講義が被ってるからもっと頑張れちゃう」


 二人同時に席から立ち上がり、綺麗に平らげた皿をトレーに乗せて席を立つ——と、背後の人影に気付かなかった夢叶の背中が誰かとぶつかる。ふいな衝撃に驚いた夢叶はトレーを慌ててテーブルへ下ろしながら、急いで後ろへと振り返った。


「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」

「ううん。僕の方こそごめんね。ちゃんと前を見てなかった僕の不注意だ。怪我はない?」


 勢いよく頭を下げて謝る。と、相手の男は穏やかな声で夢叶を気遣った。男の透き通った声に釣られる様にしておもてを上げると爽やかな面貌が視界に入る。真正面に立つ爽やかな青年の双眸と、金色の眸が静かに重なった。


(あ、色は違うけど明希人君と同じだ)


 右眼は鶯色うぐいすいろ。左眼は青紫色に塗られた美しいオッドアイが、夢叶の瞳孔に映り込む。


「どうかした?」

「あっ、いえ。ごめんなさい」


 ゆるりと首を傾げる男にはっとした様子で意識が引き戻される。無意識にオッドアイを見つめていたことにようやく気付き、数秒遅れて恥ずかしさが顔を出す。すると、それを真正面から見ていた男の頬がふわりゆるんだ。


「月雪夢叶ちゃんだよね? 同い年だし、そんなにかしこまらないで大丈夫だよ」


 眼の前にいる男が自分の名前を知っていることに驚きをかくせず、ぱちりと猫眼を瞬かせる。その素直な反応に男は眼を細めて笑った。

 明希人よりは低いものの、百八十に届きそうな身長に加え、小さな顔に整った目鼻立ちをしている。さらさらと靡く短髪の黒髪にしても、爽やかな好青年という言葉がぴったり当てはまる風貌だ。


「あの、どうして私の名前を……?」

「どうしてもなにも夢叶ちゃんは有名な女の子だから知ってるよ。それにあの明希人君の彼女なんだから」


 朗らかな表情のままさらりと言った。明希人と異なる色をしたオッドアイはやや垂れ眼で、優しさが滲み出ている。


「あ、ちなみに俺も歴史学部だから。夢叶ちゃんと一緒だよ。授業も幾つか被ってるんだけどなあ」

「ご、ごめんなさい。存じ上げなくて」

「あは、ごめん。責めるつもりで言った訳じゃ無いから気にしないで。ていうかそんなことより敬語はもう無し、ね?」


 柔和な三日月眼を浮かべた爽やかな顔ばせに夢叶がこくりと頷く。明希人と、明希人の親友以外の男と普段あまり話すことの無い夢叶にとって、この状況は極めて珍しいものであった。


「僕の名前は遊馬椿あすまつばき。これも何かの縁だし、これからよろしくね夢叶ちゃん。僕のことも気軽に名前で呼んでいいからね」

「椿、君」


 躊躇いながらもそう呼ぶと、嬉しかったのか、椿はゆるりと口角を持ち上げた。そんな二人のやりとりをやや離れたところから見ていた男が、揶揄からかい混じりの声を飛ばす。


「おい椿。何女神といちゃいちゃしてんだ。彼氏に見られたら大変だぞ」

「……女神?」

「あは、無自覚なところも可愛いね。もう少しお話したいところだけどもう行かなくちゃ。じゃあまたね夢叶ちゃん」


 にこっと爽快な笑顔を浮かべた椿は、ひらりと手を振りながらその場を後にする。夢叶はそんな椿に応えるようにして慌てて小さな手を持ち上げるのだった。


「なあに凝然じっと見つめちゃって。浮気してたって明希人に報告しちゃうわよ」

「え、そんなことしないよ。ただ明希人君以外で、オッドアイの人を見たのが初めてだったから気になっちゃって」


 夢叶と椿の会話を近くで観察していた麻子が、にやりと愉しそうな笑みを浮かべた。揶揄い冗談である麻子の言葉に夢叶が真面眼な顔をして否定する。その純粋ピュアな反応を可愛く想いながら、夢叶の言うオッドアイ二人を憶い浮かべた。


「確かに明希人も椿もオッドアイね。性格は天と地ほど離れてるけど」

「あれ、麻子は椿君と知り合いなの?」

「うん。一年の時、語学の履修科目がおんなじだったのよ。挨拶程度には知り合いね」

「そうなんだ。私は今日初めて椿君のことを知ったよ」


 トレーに乗った食器を返却コーナーへと運びながら麻子が口を開いた。


「椿を知らないなんて夢叶くらいよ。私は全くタイプじゃないけど、女の子からかなりモテるんだから。同性からも好かれてて男友達も多いし」

「そっか。そんなに有名な人なんだね」


 いつも明希人のことばかり見ているせいか、夢叶は同学年の男子をほとんど知らない。食器を片付け終えた夢叶は、明希人の存在の大きさを改めて実感し耳朶をほんのりと赤らめた。学食から外へ続くドアを麻子が押し開ける。新鮮な空気が二人を包み込んだ。


「まあ、明希人の有名さには敵わないけどね」


 二人の視界には雲一つ無い爽やかな蒼空あおぞらが広がっていた。学生達の笑い声が行き交っている。そんな学生たちの輪に溶け込みながら午後の講義へと向かうのだった。




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